これは、近代批評の泰斗・小林秀雄の名言です。

ロダンの有名な「美しい自然がある、自然の美しさといふものはない」
のパクリとも言われていますが、考え方としては無常ということの本質であり、
美の追求者であった小林は、それは頭の中の観念ではなく、自分の中で受け止められるものだと言っています。
つまり、認識できる存在(人の感情、心)があってこそ、外界の物事(SMやマゾヒスム)は成り立つのだと。
SMやこの種の変態性アブノーマル性癖の主要なコンセプトに、羞恥(心)があります。
政治家の羞恥心と一般庶民のそれとは、感じ方に違いがあり、その乖離は美と醜より大きい。
羞恥は人によって感じ方が異なるから、恥ずかしさを感じることの出来る人は大勢いても、恥ずかしさそのものは定義できず曖昧なままです。
女王様が恥ずかしいマゾを見ても、花を見て美しいと感じる気持ちと同じ心の動きが考えられます。花と美は一体化している。
だから、
女王様は裏切らない。 いくらマゾ本人が恥ずかしがり屋などと照れくさそうに言ったところで、どこからどう見ても恥知らずなのは明らかなのです。
自分がその恥知らずな存在であることが、恥ずかしくてつらい。
しかし、嬉しくもある。
嬉し恥ずかしのカオスが複雑に入り乱れたマゾヒズムは、より普遍的な地平へと肯定的確信的に読み解かれる。
女王様と対峙している時、僕は本当の自分の心の闇の奥の底まではカミングアウトしていないと思う。

予約して、彼女を指名してそこに己が勃って(座っていても)いるからには、その事実が恥ずかしいマゾであることをカミングアウトしている。
すでに「マゾの恥ずかしさ」などというものは消滅しているんだ。
だからといって「恥ずかしくない」というわけではない。
やはり恥ずかしいし、「こんなコトやってる俺っていったい・・・(>_<)」というような、後悔にも似た複雑な心境が渦巻いている。
しかしその後悔も羞恥心も含めて、筋書きのないシナリオに含まれたドラマの一部だったりする。
(もちろんマゾのコダワリによっては筋書きのあるドラマも、あるのかもしれません)
女王様はそんなことお見通しで、追い打ちをかけるように、
「恥ずかしいのが嬉しいんでしょ?」と、あまりにも定番すぎる台詞が出てくる。

それが嬉し恥ずかしかろうとなかろうと、多くのM男と接してきているプロ女王様は、どこでどんな言葉を使えば、マゾ萌えするかをきちんと心得ている。
それほど多くはないマゾのスモール・データから、現場で適切な表現を選びとる人肌の温かい女王様のスペックは、膨大なビッグデータを必要とする人工知能とは比べものにならない。
そして、何よりも人間の女王様の素晴らしいところは、知識や経験からでも意味不明なマゾの性癖や願望に対して、そこに寄り添った対応で受け入れて下さる「おもてなし」のプログラムが先天的に組み込まれていることだと思う。
どういうわけだか、僕はそう思っています。 その時は酷い目にあったと誤解し、「なんて女王様だ。もう二度と指名しない!」と憤慨しても、あとから冷静に思い起こしてみると、当てずっぽうでも僕のために努力してくれていたのだ、と思えるようになった。
かつて僕は
「女王様は判ってくれない」という記事を書いたことがありますが、最終的に常に、女王様は裏切らない。
若い頃は「裏切られた!」と勘違いしたこともあった。
ただたんに、まだ信頼関係が築かれていなかっただけなのに、裏切られたもへったくれもないもんだ。

こちら側の身勝手な妄想が、全て完璧に実現するとは限らないだけで、少なくとも僕がお世話になった女王様方は全員、全力でベストを尽くしてくれていた。
僕のちっぽけでクダラナイ妄想をヴァーチャル空間で可視化し、馬鹿げた夢を叶えて下さった女王様に、心から感謝しています。
マゾの羞恥には、花の美しさと同様に、解釈のうえに哲学がひろがる。
「花」という名詞は文法的に存在するけれども、「美しい」という形容詞は物理的に存在しない。
それがどうした?っていうおハナシでしたが、何か問題ありましたでしょうか? (>_<)
■ 女王様からの手紙■ マゾの壁■ 女王様とハグできますか? 
■ 私の恥ずかしいマゾヒズム
■ 恥ずかしいマゾの私
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