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マゾヒズムに花束を!

恥ずかしくて、ためになる情報発信 Female Domination & BDSM

支配と服従の神秘 



 今さら言わずもがなですが、SMの重要なコンセプトに、支配と服従というのがあります。

 文字通りの意味の中に、複雑な要素が入り込んでくる。

 マゾヒズムが厄介なのは、女王様から支配されたいけれど、それは出来る範囲内でのことに限られる(場合が多い)という点。

 心の底では「服従したくないこと」には、服従したくないと思うこともあるワケ。

 この言い方、やや意味不明かも?

 服従したいことだけに服従するなんてのは、それは本当の意味で服従していることにはなりません。

 どういう言い方をしても、SMプレイをしたことない人にはわかりにくいのでしょう。

 SMプレイ経験者なら、ストレートにダイレクトに希望内容を確実に女王様に伝えることが出来たとしても、「服従させられたい」ポイントにフォーカスが合ってないチグハグした感じをご存知かと思われます。

ILikeLoudPiggies6.jpg

 どんなSMプレイでも「S」すなわち女王様がイニシャティブを握っているからには、基本的に「支配と服従」という構図はかろうじて成立しているはず。

 しかし、それがよく言われるように「サービスのS」であるなら、支配と服従の構成は反転していることになります。

 つまり「S」はM側からの要望によって「支配(サービス)させられ」ている。
 
ILoveYourHeelsGoddess2.jpg


 SMプレイが「茶番劇」と呼ばれる所以はここにあると思う。

  それに萎えてしまう人がいる。

  さらには、ラストで完全に主従関係が逆転することに萌える変化球もあります。

 別にそこまで厳密に考えなくても、ゲーム性を愉しむという立場もアリでしょうし、細かいことを気にされない女王様もいらっしゃいます。

 しかし、服従の主体がどこにあるかはともかくとして、支配する女王様は、真に支配できる内容を、つまりマゾ側にとっては「偽物の服従心」を見極めなければならず、これがとても難しい。

 Mが「お許し下さい」と言っても泣いても、本当に許していいのか、許さずにお仕置きを続けるべきなのかは、エンドレスな疑問として常に残ります。

FemaleOwnedAndOperatedPart14.jpg

 セーフ・ワードが設定されていたとしても、それを言わないからOKか?というと・・・

 実はそうでもなかったりすることも、あったりなかったりするのです。


 関係性が深化し、両者の意識・身体レベルも上がってくると、さらにややこしいことになりそうで怖い。

 支配者の誘惑に、服従者が堕ちる。

 出来そうにないことでも、「服従させられてみたい」という願望がマゾにいつ芽生えるのかは謎ですが、それはNG項目を突破する起爆剤となりえる。

  KinbakuWhipping が、肉体的快楽を求めているならば、支配と服従の遊戯では、そこで精神のエロス化を引き起こす。

 優れた女王様はその瞬間へとマゾを導くだろうし、見極めることが出来るのだろう。

 その一方で、どんなに素晴らしいカリスマ女王様であっても、ある特定のマゾにだけは、その支配力が及ばないこともあります。

TheSmellBetterBeGoneByTonight1.jpg

 支配と服従の関係性は絶対的なものではなく、両者の相対的な問題なのでしょう。

 さらに相性やタイミングなども、その化学反応に関連してきます。

 奥の深いSM関係の中でも、支配と服従のメンタリティには、神秘的な謎パワーが多く、美しい驚きに満ちているようには思います。

 それでも僕としては、お約束の上にだけ成り立つユル〜い、ソフトな「支配と服従」の戯れに魅力を感じているのですが、

 何か問題ありましたでしょうか?






[ 2016/12/18 18:47 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(4)

割礼と包茎の文化史 


キリストの割礼
キリストの割礼(グイド・レーニ 画、1640年頃)


 割礼については「旧約聖書」にその記述があることから、ユダヤ教信仰の一環という認識も多いようですが、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの「歴史」にも、古代エジプト人・エチオピア人も昔から割礼を行っていたと紹介されています。

 しかし、古代ローマやギリシアではそのような風習がなかったため、奇異の目で見られていたのかもしれません。

 その後、キリスト教の影響もあって割礼文化は西欧社会に広まっていきました。

 割礼、つまり今で言うところの「包茎手術」は、歴史的・宗教的・衛生的な理由を問わず、西欧社会ではわりあい「普通に」行われる一方で、日本ではそれほど普及していない観があります。

 ですから、

 「包茎チンポが虐められる」 という文化・風習は、

日本独特のもので、西欧社会ではあまり一般的ではない。

 というよりも、欧米の成人男子の包茎率が低いというのが、彼らがマイノリティとして迫害されずに生き延びてきた最大の理由でしょう。

 キリスト教徒はしばしば弾圧されてきましたが、包茎という理由で差別されたり、虐められることはなかったのです。

 そもそも、みんな恥ずかしがって言わないから本当のところ正確な数字が不明ですが、どうやって調べたのか日本人の包茎率は7割を超えるという統計データもあります。

 もしそうであるなら、日本人のマゾヒストの7割も包茎とも言えることになります。

 M男自体が少数ですから、その中に占める包茎マゾ男の密度はかなり高いと思われます。

 欧米男子のマゾヒストの包茎率は、これまで低いと考えられてきました。

 欧米のマゾヒズム願望の大きな項目にCBT (Cock Ball Torture)というのがあり、その映像数は膨大です。

 その中で「チンポ虐め」のイメージには、多くの場合、皮の剥けた立派なペニスが登場します。

 しかし近年、インターネットによる無修正画像の異常な「解禁現象」により確認されたのが、少数ではあるものの、欧米の成人男子にも包茎野郎が少なからず見受けられたという事実です。

 例えば、English Mansion というサイトにあるFemdom ムービーには、包茎のM男を虐める女王様の物語がありました。

tem60610-15.jpg

 少ないながらも、あっちにも包茎野郎はいた。

 画像の修正や不正ではなく、包茎チンポはあります!

 それでもBDSMというジャンルに限って言えば、少なくともFemale Domination(女性支配)というカテゴリーではやはり少数派なのが包茎チンポ。

 包茎チンポが女性にバカにされたり、辱められるという優れた伝統や文化は、日本固有のものであることを認めざるを得ません。

 国際社会におけるマゾヒストの包茎問題について、我が国は積極的に支援と保護の政策を打ちだし、彼らがもっと気持ちよく虐められる環境を整備していかなければならないでしょう。


包茎野郎



[ 2014/05/15 07:06 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(2)

萌えるマゾヒズム 

ホイチョイ
 
 マゾヒスムとはいったいどういうものなのか、長年考えてきましたが、ここに一つの解明の光を見たような気がする。

 日常から非日常へ、支配的立場から服従的立場への転落という構図は、トラディショナルなマゾヒズムの基本です。

 おそらく全てのアブノーマル願望の本質には、この「胸キュン」現象が関与しているのであり、そこにはどういうシチュエーションで萌えるかという個人差や嗜好性の違いがあるにすぎない。

 「ご主人様」と呼ばれてキュンとなる人もいれば、「この変態野郎!」と罵倒されて萌える人もいるわけで。

 せっかく敬語を使われていたのに、あるタイミングでタメ口に切り替わった時に萌えるというのは、現代的草食系マゾヒズムには、十分ストライク・ゾーンなのであろう。

 僕も40代ぐらいまでは、自分の口のききかたがなっていないのを棚に上げて、目下の人間のぞんざいな言葉遣いに内心「ムッ」としたりもしたのですが、いい歳になってくると、何だか知らないけど寛容になってくる。

 というか、どうでもよくなっちゃうんですよね、もう。

 もちろん言葉は大切だし、言葉責めも好きなので、こだわりはあります。


 ある時期から、若い女の子たちの男の子みたいな口調や、純正な大和撫子ラインから外れたトーンにどことなく惹かれるものを感じるようになってきた。

 若い人には意味不明でしょうけど、一度でも新人の指導的立場や管理職などを経験した中年以降の世代であれば、この4コマ漫画のように、年下の美少女からの「タメ口」攻勢に惹かれる心理はよくわかるのではないだろうか。

 あえて「美少女」と書きましたが、ここに同性愛的な要素が絡んでくるとよくわからん(>_<)

 ゲイM Tさんとか秋山さんなら、美少年にタメ口きかれたら萌えることもあるのかな?

 それはともかくとして、それまで対等か、こちら側が支配的なポジションにいたのに、瞬間的に発生する想定外の立場の逆転が、マゾヒズムのツボの一つを刺激してくれることは確かであろう。

 本名を呼び捨てにされたり、部下から屈辱を受けるというストーリー・プレイが欧米の Femdomシーンでは定番です。

 これとは逆に、女王様から敬語で言葉責めされて萌える屈折したマゾヒズムもある。

 これなどは敬語表現が高度に細分化される嗜好から出て来たオプションみたいなもので、日本独特の文化だと思う。

 メイド喫茶が日本でヒットするわけです。

 沼正三的にはゆるいと言えるのかもしれませんが、価値の多様化とともにマゾヒズムもグローバル化してきました。

 いずれにしても女王様には、上品に、美しい日本語を話して頂きたいと僕は願っています。


 どうでもいいか、そんなコト。



 【少しは関連するかもしれないエントリー】

新井恵理那m
■ 胸キュン!(←死語?)



[ 2013/02/11 08:00 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(5)

鏡とマゾヒズム 

鏡_2


 ナルシズムは、その人物が誰からみても美しく、自分でもうっとりしてしまうぐらいであれば納得がいく。

 誰かに誇りたくなるほどの美しさであれば、自分だって好きになれるだろう。

 これが理想的で正当なナルシズムだと思われる。

 しかしマゾヒストのナルシズムは、それとはベクトルが全く異なる。

 縛られたりして惨めな、恥ずかしい自分を見つめることで悶えるのだから。

 できることなら、見たくない、醜い姿。

 そのような負の自己陶酔がMのナルシズムであって、健全な(?)ナルシズムとはちょっと違う。

 ただし、方向が逆向きというだけであり、その本質に変りはないのかもしれない。

 苦痛を快楽に転化する錬金術よろしく、恥ずかしい己の姿を再認識することにより、羞恥が恍惚となり、己の満悦した姿を他の誰かにも誇らしげに見せたいのだ。

 ここで「鏡」というアイテムに注目したい。

In_front_of_the_milor.jpg

 その自己認識には鏡という道具が重要な役割を果たす。

 昔のSMクラブなどでは、そこがどんなに狭くてみすぼらしいスタジオやマンションの一室であろうとも、必ず「鏡」があった。

 マゾヒズムのナルシズム的願望を満たすためにこれは必要不可欠だからである。

 陶酔するための己の姿(それが美しくても醜くとも)を切り取り、それまでは妄想的なイメージでしかなかった虚像を、リアルタイムで実像として「確認」できるツールなのである。

 この点に関しては、澁澤龍彦がサドとマゾッホの比較文学論の中で巧みに指摘している。

 見ることと見られることの複雑な関係を、演劇的に演出するということになると、サディストよりもマゾヒストの領分に近づくのではないだろうか。(「サド公爵、あるいは城と牢獄」ーマゾッホとサドー)

 澁澤はこう述べた後で「毛皮を着たヴィーナス」のあるワン・シーンをひきあいに、マゾヒズム小説に鏡は不可欠であると主張する。

「毛皮を着たヴィーナス」では、ワンダとグレゴール(主人公ゼヴェーリンの奴隷名)が奴隷契約書を交わした後半部に次のような場面がある。グレゴールが浴槽でワンダに奉仕した後、この二人のツーショットがそこにあり、それが部屋の向こう側にある鏡に映し出されている。これをグレゴールが目撃して衝撃を受けるのだ。澁澤は同書でこの部分をそのまま引用し自説を展開するのだが、ここは僕も大好きなシーンなので、ここでもそのまま引用してみよう。


 「たまたま私の視線がすべって向いの壁際のどっしりとした鏡の上に落ちた。すると思わず、あっと叫び声を上げた。というのもその金箔の額縁の中には、絵の中の人物のように私たちの姿が映っているのが見えたからである。そのイメージは息を呑むほど美しく、たいそう奇妙で、大そう幻想的だった。それかあらぬか、その線も色彩も霧のように溶けうせてしまうのだと考えると、私は深い悲哀の念にとらわれたのである。

「どうしたの?」とワンダが訊ねた。

 私は鏡を指さしてみせた。

「あら!本当にきれいだこと」と彼女は嘆声を上げて、

「残念ね、この瞬間は絵には残しておけないのね」


 物語の後半では、ワンダはこの瞬間をドイツ人画家により描かせようとする。

 ナルシストが自分の姿に見とれるための鏡の中には、「霧のように溶けうせてしまう」つかの間のイメージが映っているだけである。長くは続かない。見るのをやめてしまえばそれまでなのだ。

 見続ける限りにおいて、永遠の美を自分のものにすることが可能となる。

 澁澤は鏡についてこうも述べている。

「動作を中途でやめ、クライマックスを先へ先へと延ばすための装置」である、と。

 一度やってみるとわかるが、鏡を見ながらというのは、なかなかうまくプレイができない。

 鏡の中で止めておきたい物語は一瞬にして過ぎ去ってしまう。

 このジレンマを解決してくれるツールに、ビデオカメラがある。


撮影されたい願望


 録画しておいて、あとからその物語を第三者のごとく鑑賞する。

 昔のセビアンや美芸会の映像には、そのような意味合いもあったのであろうか。

 置きっぱなしの、撮りっぱなしの、演出不在のおどろおどろしい記録は、出演者本人のナルシズムだけが満たされる。

 昔の、クラブ所有のプレイルームになくて、今のラブホにはたいてい備え付けられているものに、大型のモニターないし、液晶プロジェクターがある。

 ちょっと気の効いた演出として、カメラの出力端子からケーブルをこのモニターに繋いでやれば、録画内容を現場でモニターできる。いわゆる生中継だ。

 グレゴールが惜しんでいた「霧のように溶けうせる」イメージを、永遠に記録しながら、鏡とは別の、自分のお気に入りのアングルで楽しむことが可能になったのである。

 こうなると、クライマックスを先延ばしするのでなく、次から次へと新しいクライマックスを予期させてくれるような気がしてくる。


可能であれば、誰かに撮影してもらいたい(女性に)wanabe_shoting.jpg
なぜか、たまたまアナル掘られているイメージになっちゃったけど、僕が好きなわけではありませんので(>_<)

 

クンニしているところは、別に恥ずかしくもなんともないよな~(^^)
wanabe_shoting2.jpg
ああぁぁ~、ぜんぜん恥ずかしくないー もっと撮影してええ~ (´Д`;)ハアハア





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[ 2012/04/07 18:26 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(2)

鏡のナルシズム(初級編) 

Woman_on_the_Top

 この写真は、大好きな1枚です!

 顔面騎乗にエリック・スタイル というのがありますが、その Eric Kroll の代表的な作品。

 女性の足下の向こう側に鏡が見えるでしょう?
(画面左にも姿見がありますが、右下で男性の頭部が映りこんでいる方)

 このように低いアングルだけが見えるようにしてあるのが、僕的に萌えです。

 たまたま、撮影用に反射をさけるためだったのかもしれませんが、

 自分の低い姿勢がトリミングされたように、現場で見れるところがいい(^^)


in_front_of_mirror_1.jpg
このように全体像が見えるのもよし(^^)


 SMクラブなどではたいてい鏡がありますが、自分の恥ずかしい姿をみたいという妙な願望を満たしてくれる重要なツールとなっています。


GTOP_in_front_of_mirror.jpg

 しかし、そこに女王様の姿も イレコミ でないと意味がありません。

 
鏡s


 美しい女王様と、醜くて無様な自分のコントラストによってエロティシズムが深まる。



このように、自分だけのナルシシズムとは趣が異なります

鏡の前で






【関連エントリー】


■ 男としては最低で、M男としては最高の瞬間









[ 2012/04/05 20:06 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(0)

健全なマゾヒズム 

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 縄師の 我流縛 によれば、SMとは「セクシャル・マゾヒズム」の略で、

「SMプレイにサディズムは存在しない」のだという。

 これは僕も昔から思っていたことで、どちらかといえばS側(サディズム寄り)とも言える縄師の立場からこのような発言がされるとはちょっと意外でありました。

 彼が言ってるのは、女性を縛って責めるような、いわゆる伝統的で典型的なSMプレイにおいてでさえ、そこには性的マゾヒズムよる共同幻想が責め側(S側)にもなければならないということです。

 内面に性的マゾヒズムのない画一的なサディズムによって行われるSMは暴力であり、「SMプレイ」と混同することに警鐘を鳴らしている。

 おそらく一般的には(マニアックにも)SMとは「サディズム&マゾヒズム」と解釈されていて、精神医学用語として間違いではなく、形而上学的にSとMは共存関係にある。

 しかしながらプレイ、つまり「ごっこ」として行われる現代のSMプレイにおいて真のサディズムは存在しないし、あってはならない。

 彼に言わせると、サディズムには暴力を正当化する心理があり、健全なものとは言えない。

 だからといって、マゾヒズムがサディズムと比較して健全であるかどうかはともかく、

 現場でイニシャティブを握るサディズム側に、より確かな健全性が求められるのは当然です。

 よくカリスマ的な緊縛師やS男性が「SM(あるいはサディズム)とは究極の愛情表現である」などと宣いますが、はたして本当にそうなのか。

 もしかすると異常者とまでは言わないにしろ、誤解や無知からくる加害者側の暴力的行為の言い訳にすぎない可能性だってあるかもしれません。

 当然ながらこれは、女性がS側となる Femdom 的なSMプレイにも同じことが言えます。



 責められるM男は、自己のマゾヒズムとは別に女王様のことを愛している。

 そのこと自体が幻想なのかもしれないが、逆に女王様のほうにはM男への愛もないのに

「責めている私の行為には愛があるんだワ...^^)」などと勘違いされては困るのです。

 プロ・アマ問わず良心的なSM愛好者の間でも、「愛情表現」という切り札は使用されてきた。

 痛くても、汚くても、本当にイヤでも、そこに愛があればなんでも正当化されてしまいがちなSMの世界。

 そういう微妙なグレーゾーンを排除し、現代のSMを健全化しなければならないと我流縛は主張する。

SMの健全化について 我流縛のブログ「紅縄庵 思索之間」より


 僕の数少ない個人的な経験から言っても、人柄が優しくてひょっとするとM女かもしれないと思われるような女王様にこの点を誤解されてるようなケースがかつてありました。

 しかしそれで僕が不愉快な思いをしたかというとこれまた微妙で、この問題は本当に奥が深く、難しい。

 「両者合意の上」とはいっても、いったいどこまでが「合意」なのか。

 合意していない境を越えてしまった時点でそこから突然「暴力」と言えるのだろうか?

 正直なところよくわからないのですが、かろうじて僕が思うのは、

 SMプレイは「SとMのプレイ」ではなく、「マゾヒズムの遊戯」であり、

 「SとM」というよりも、「そこにいる両者」のコラボレーションなのではということです。

 そして確かに、サディズムとは無縁なのでしょう。

shoten_03m.jpg


 女王様やS女性がM男を嫐って楽しまれるにしても、そこにはいわゆる暴力的なサディズムはありえない。

 これは要するに我流縛の言うところの「セクシャル&マゾヒズム」プレイと同じだと思います。

 たとえ合意の上であっても、暴力との境界境が曖昧だったり、犯罪スレスレの行為は避けるべきで、良識ある大人のたしなみは必要です。

 そのためには健全なるマゾヒズムの理解が不可欠なのです。


 僕らマゾヒストの性癖は、本当は健全と呼べるようなものではありません。

 だけど、自分が自分らしくあるためには必要な「不健全さ」なのです。

 時には健全さを保つために、思いっきりヘンタイであることを潔く認めなければならない。

 不健全な変態が「変質者」であり、犯罪者になってしまう。

 マゾヒズム自体は犯罪でも変質でもなく、たんなるヘンタイの一種で、罪はないのです。

 誰かにいいわるいとか、または悪趣味と言われてしまえばそれまでですけど、ほっといてほしい。


 自分は変態(ヘンタイ)であろうとも、心身ともに健康でありたいと願っているのです。


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【気になる過去ログ】

■ 理想と現実

■ ノーと言えないマゾ

[ 2011/11/19 10:06 ] マゾヒズム概論序説 | トラックバック(-) | CM(2)


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 自分に素直になりたい!そう願っているひねくれ者なのかもしれません。平凡で小市民的な暮らしを営む一方で、過激な妄想世界を漂う、無意識過剰の仮性マゾ。



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