それを、わたしたちの「ふつう」にしよう。 これは、ある自治体が制作した人権啓発ポスターのコピーです。
多様な価値観を受け入れて、お互いの個性を認め合う。
金子みすゞもいっているように、みんなちがって みんないい。

口で言うのは簡単ですが、頭でわかっていても、心の中ではどうなっているのでしょうか。
時々僕は、仕事やボランティア活動などで、話の噛み合ない人に、似たような言い方を使うことがある。
あなたの常識と、僕の常識は、違うみたい。 (順番は入れ替えてますけど) 個性や価値観がみんなちがうのは、当たり前のことで、それを再確認するだけでは何の解決にもなりません。
ちがうことを認めつつ、歩み寄るのが、本当は理想なんだ。

たまに、SMバーなどで「常識」を「性癖」に言い換えて、知り合ったM男性に言うこともあります。
しかし、異なる性癖のM男性に歩みよるのは難しい(>_<)
彼に出来ること(鞭とか)が、僕には出来ない。
しかし、僕に出来ること(顔面騎乗とか)は、彼にも出来る。
そんなの、ズルくないですか?↑ どこが (。。)☆\バキ
わたしの「ふつう」と、あなたの「ふつう」はちがう
このコピーの本質は、平等とか自由の問題ではないと思います。
極論すれば、人はみな不平等で、不自由なのです。
それを受け入れて、自分にとって身の丈に合った願望や快楽を模索する。
あなたの願望と、僕の願望はちがう。 僕はこれを女王様にも(恐る恐る)言ってみたりする。
僕は鞭がNGなのに、女王様は鞭が大好きだとします。
もしも彼女が僕を鞭で打ちのめしたいと望むのであれば、
別に打たれても構わないかも鴨川〜(>_<)と思える時が稀にあります。
稀に。 (ある特定の女王様に限ってのことですが・・・) でも多くの場合女王様は、
「マゾがそれを望んでいるのだろう」と推測している。
僕は本当はそれを望んではいない。
女王様は僕が心の底からは望んでいないことを
承知し、少し手加減して打ってくれる。
(↑ココが重要!)
なんだか不思議なことですが、それが嬉しかったりして。
こういう微妙で意味不明なマゾヒズムの快楽は、他の人とちがうとは思う。

他の人にとってフツーなことが、別の人にはフツーではない。
そんなコトはよくあることで、ことさら、今さらどうよ?ってな感じに思うのですが、そのような当たり前のことがわかってない人が増えたのでしょうか...
他者が自分の「フツー」とちがうことに怒り、いじめやストーキングに走ってしまうのは哀しいことです。
もともと「自分がフツーでない」と思っていれば、世の中はもう少し平和で、愉しくなるような気がする。
どうでもいいか、そんなコト。 本日もマゾ花にお越し頂きまして、ありがとうございます。
この年齢になってくると、自分が「ふつう」ではないということを、俯瞰的に客観視するようになりました。
変態な自分を、今は普通だと思っていますが、何か問題ありましたでしょうか?
■ 勇気が出そうにない時、つぶやきたい言葉