ウィリアム・ブーグロー『ヴィーナスの誕生』(1879年)
オルセー美術館所蔵 フランスの女流作家ボーヴォワールの有名な言葉に
「人は女に生まれない。女になるのだ」 というのがある。(「第二の性」)
これと同様に人間は始めからマゾヒストに生まれついていたわけではない。
人はマゾに生まれない。マゾになるのだ そのDNAが仮に存在するにしても、たいてい何かのきっかけがあって自覚するのではないだろうか。
では、そのきっかけとは?
何も近代になってからマゾッホが「毛皮を着たヴィーナス」を発表し、人々がそれを読んでからマゾヒズムという意識が芽生えたわけではない。
そういう心の動きに彼の名前が使われただけで、この意識の起源はもっと古いはずである。
サンドロ・ボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」

人の持つ本能的な心の動きに、美しいものには思わず目を奪われてしまう!というのがある。
新生児ですら、美人とブスの写真を並べると、美人のほうに注目するという事実がある。
それは美を見た瞬間に心の中で何かが起きているからだ。
例えば男性の場合ならば美しい女性を見れば自然と「好きになる」という心の変化が生じる。
その美を崇拝したいと思うか、支配したいと望むのか、これは人によって異なるかもしれないが、美には人の心を変えてしまう力があることだけは確かだ。
マゾヒズム、あるいはサディズムは、こうした精神的な変化の現れなのだと思う。
自分が美しいと思う対象へのアプローチの手段が、鞭で打つことになるか、打たれたいと願うことになるのか。
美を支配しようとすれば鞭で打ち、美を崇拝しようとするなら、鞭で打たれても文句は言わない。
特に西洋のキリスト教社会では、苦痛によって神と出会えるとする信仰が根強く、偉大なる神(美神)からの試練を甘んじて享受しようとする伝統的文化があった。キリスト教以前にあった古代ローマやギリシア時代のヴィーナス信仰も、美しいものに対する人々の普遍的な心の現れであったのだろう。
美そのものの定義はともかくとして、人類はその歴史始まって以来、美を追い求めてきた。
SM的意識の萌芽は、美への追求心と無関係ではないだろう。

ティツィアーノ作「ウルビーノのヴィーナス」(1538年頃)
