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マゾヒズムに花束を!

恥ずかしくて、ためになる情報発信 Female Domination & BDSM

S男の気持ち 



 とあるサイトの管理人(S男性)の自己紹介にこんな文章がありました。

 私が縛られた女性に興味を持ったのは幼い頃からで、幼児からすれば、12~13才の中学生のお姉さんも立派な大人の女でした、まして保育園の保母のお姉さんともなると、完璧に、縛りと責めの対象として見ていたように思います。

 幼稚園児が保母のお姉さんを「縛りと責めの対象」として見つめるというのは凄い。尊敬しますね。ただ、次の記述が残念で悲しかったです。

 SM(という用語について)。
 良く世間一般にSMと称して一緒くたに言われますが、私の場合サドであり、M女は兎も角、M男など全く理解不能の存在で、SMとして十派一からげの扱いは余り気分の良いものではありません。



 う~ん、そうですか。

M男など全く理解不能

 まあ、別にいいんですけどね。そんなに簡単に理解されても困るっていうか。

 だけど、僕は逆にS男性の気持ちは理解できると思っている。実際にやるかどうかは別にして、M女を責めるのは楽しそうだなあと思いますもん。M女を満足させる責めをやる自信はあります。もちろん相手によりますし、自分がマゾだからという理由だけで上手くやれるものではないのは当然として。気は進まないけど、M女さんに「責め奉仕」することは可能ですね。あんまりしたくはないですが。

 フェティッシュ・バーなどでたまにS男性の方と同席することがあります。話は噛み合ないことが多い。そりゃそうか。向こうもそう思っているんだろう。なるべくならお互いお近づきになりたくない者同士かもしれない。同じSMというコミュニティにいるとは思いつつ、「SMとして十派一からげの扱い」は不当と考えているのなら、接点を探すのが難しい。だけど、S男からM男に転向している人もいるわけだし、あながち接点がないとは言い切れない面もある。いずれにしても、S男性とM男の2ショットは絵にならないことだけは確かだ。(ゲイ雑誌などを除く)

 あまりつきあいがないからよく知らないし、一概には言えないとは思うが、S男性の気持ちに寄り添うのは難しい気がする。にもかかわらず、

S男など全く理解不能!

と喝破するほどの勇気はない。





[ 2009/02/27 19:58 ] つぶやき | トラックバック(-) | CM(4)

落ちた天使・小向美奈子 


 覚せい剤なんてやりたいとも思わないけど、「強要」されてしまうとどうなるかわからないのかもしれない。そんなことを感じた。お願いしてさせてもらうよりは、

 強制的に命令されてするのが好き!

というのはマゾヒズム的ツボではあるからだ。マゾヒズムというのは、やはり女性的な感性なのだろうか。
 
 力士やそこらへんの芸能人と違って、今回の小向美奈子の場合には少し同情してしまう。つき合っていた彼氏がどうしようもない。そんな男と出会ったことがすでに不幸のはじまり。もし好きになったのならそれが悲劇のはじまり。

 普通は所持しているだけで犯罪なわけだから、強要された時点で手を切ればよかったのに。

 それでもずるずるとつき合ってたのなら半ば自己責任ともいえるだろうが、本当に強要されたのであれば、かわいそうだとは思う。

 でも、逃避的に自ら手を出した疑惑も残る。酒とか薬への依存症の向こう側に、犯罪と知りつつ覚せい剤にというパターンはけっこう多いらしい。入手や所持ができちゃったところがまた運のつきだった。こうなると、ネットで薬が容易に購入できるのも問題かもしれない。

 ま、執行猶予もついたことだし、なんとか立ち直ってもらいたい。









[ 2009/02/26 13:41 ] 報道 | トラックバック(-) | CM(0)

韓国のお馬さんごっこ? 

これは珍しい韓国のお馬さんごっこの映像。



 最近はYou TubeにもSM系動画がアップされています。日本のテレビ番組からのピックアップから、OWKなどの本格的なものまで、バラエティに富んでいますが、これは韓国のアダルトビデオか何かでしょうか。

  日本では今ひとつ盛り上がりに欠けるSMプレイにこのお馬さんごっこがあります。たわいもない遊戯だとは思いますが、僕は大好きです。年配者の方には愛好者も多いのではないでしょうか。

 欧米のBDSMシーンではPonyPlayとして人気があるのは、やはりあちらは騎馬民族文化の歴史が長いからなのでしょう。馬を使うシステムや道具が整備されている。OWKなどのHuman Ponyの映像をみると、それなりのリアリティがありますね。「ごっこ」ではなく、生活の中に定着している感じ。伝統や文化に根ざした存在感の違いには立ち打ちできません。

 お馬さんごっこは日本では、谷崎潤一郎の「痴人の愛」の中で登場しました。大正時代後期の新聞小説で、官能的な二人の愛の遊戯として「お馬さんごっこ」が紹介され、一躍大ブームになった。(作品が)

 自由奔放なナオミの、ニュースタイルな女性の生き様が脚光を浴び「ナオミズム」という流行語も生まれました。「S女」とか「女王様」という言葉や概念もなかった時代だと思われますが、その先駆けだったと言えるかもしれません。

 「痴人の愛」は一般的に純文学としての名声の誉れも高い名作です。この作品のインパクトのわりには、「お馬さんごっこ」がメジャーになりきれないのは、これがあまり「SM的ではない」からなのかもしれないと最近思うようになりました。それでは、何をもって「SM的」というのか? これも議論の多い項目ですけど、俗に「鞭・ローソク・浣腸」という具合に、変態性・性的倒錯というカテゴリーに入れるには「お馬さんごっこ」は、少しだけ「健全」なイメージがあるような気がします。もちろん「痛い」「苦しい」人馬調教もあるのでしょうが、なんとなく微笑ましい、明るい感じが先に来る。映画「女性上位時代」に見られるようにさわやかなイメージさえ感じられます。

 最近の若い人はバカにしてやらないんだろうと思ってましたが、韓国のこのお二人は若く、楽しそうでいいですね。





【関連エントリー】


■ 楽しいお馬さんごっこ

■ NHKの変態講座
NHKの変態講座



背中に座られる時 ■ 背中に座られる時







[ 2009/02/24 20:33 ] 雑記 | トラックバック(-) | CM(2)

CFNMサロン 



 CFNMとは着衣女性全裸男性のこと。ウィキペディアにもちゃんと項目が立ってはいるが、日本では言葉や概念はまだ馴染みが薄いように思っていた。

 ところがなんと、ついにCFNMサロンが登場した。場所は東京・御徒町のRipCANDY

 SMサロンよりはソフト路線で、メイド喫茶に羞恥プレイを加味したような印象だが、実際どうなのだろう。けっこう流行っている様子。

 「SMとCFNMは違うよ」という意見もある。今やSMのあり方は多様化し、SMにおいて不可能なものはないという状況になってくると、SMの標準的な目次もあり得なくなってくる。鞭・ローソク・浣腸といったSMの御三家は登場しないけれど、CFNMは立派にSMのカテゴリーに入ってきている。

 CFNMは、僕が初めてSMクラブに行った頃は、コンセプト自体が存在せず、セッション時にM男性は必然的に裸になるだけで、それ自体が目的になることに違和感すらあった。お馬さんごっこや顔面騎乗をするのに、(M男が)全裸である必要はないと思っていたから。もちろん女王様が全裸というのもありえない。それを求める人はいるかもしれないけれど。女尊男卑&女性上位のSMでは、女王様は、普通は脱がない。

 一般的にSMにヌーディティは男女とも必要十分条件ではなかった。むしろ首輪や全頭マスク、ボンデージ拘束具や、ラバー製品とかハイヒールなど、コスチュームの方にウエートがあった。
 
 ただ、羞恥という領域は純度の高いSMのカテゴリーとして成立するから、着衣女性の前で男性が全裸になるというシチュはありだし、萌えではある。

 全裸になって何をするのか? 見られているのを恥ずかしがる。あるいは芸をさせられるなど羞恥プレイになるのが一般的で、強制オナニーもよくあるパターン。御徒町のCFNMサロンではさすがにそこまでは出来ない。下半身も露出することはまず無理だろう。ただ、雰囲気だけのCFNMを楽しむ程度の空間だ。

 自分の部屋で一人で裸になっても何も恥ずかしくない。他者の視線が必要になる。CFNMサロンでは、かわいい女の子の視線を1時間4500円で買うわけである。これが高いのか安いのかよくわからないけれど、内容的にはメイド喫茶以上のオナクラ未満といったところだろうか。

 そう考えると安い?のかもしれない。



[ 2009/02/21 16:03 ] 雑記 | トラックバック(-) | CM(0)

料理とSM 



 最近読んだ本の中では一番印象に残ったマイ・ヒット。SM愛好者だけでなく、広く一般の人にも(おすすめはしにくいが)読んでもらいたい作品。著者は料理人からたまたまプロの女王様になってしまった。だから小説ではあるけれど自叙伝的にも読めるリアリティが感じられる。

 SMは料理と似ている。これは料理をしないSM経験者、またはSM未経験の料理人にはわからないかもしれない。全体のバランス、細部のチェック、時間制限、念入りな準備、バラエティと繊細さ、柔軟さ、即興。

 そして他人に何かを与え、満足させることで得られる喜びとパワー。料理の醍醐味は、なるほどSMプレイの流れのアナロジーとして理解しやすい。

 さらに「食」と「性」のもつ共通性。SMと性を切り離す考え方もあるけれど、非論理的な嗜好性のバラエティという意味において、エクスタシーという感覚は味覚とも確かにクロスオーバーする。

 変態的な視点からでなく、まっとうなシェフの目でSMというレシピがなめらかに公開された。僕はこれを読んで、日本のお寿司屋さんを連想してしまう(笑)

 昨今のSMクラブというのは、回転寿司みたいなものじゃないかな。味の嗜好は理屈ではない。どうして寿司が好きなのか、うまく説明できない。味の好みについて、あれこれ分析して考察するのはバカげている。好きなんだから、それでいいでしょ!という世界。お寿司ならたいていの人は好きだと思う。ところが、ひかりものはダメだとか、ワサビ抜きでないとイヤだとか、好みは細かくなる。
 そこで「そうですか。お嫌いですか」と、ワサビ苦手な相手に無理にすすめることはあまりしない。「美味しいのにアホなヤツ」と心の中では思いつつ、相手の好き嫌いを認める柔軟性が寿司談義にはある。

  SMではナカナカそうはいかないことが多い。
 
 好きなネタだけ食べていればいい回転寿司と違って、まわってくるお皿にのってないかもしれないネタを一緒に探すようなSMセッションの場合、女王様と奴隷の共有できる味を見つけることが難しいからなのだろう。時間がない時は、とりあえずまわってきた皿からつまんで食べることになる。そして自分の期待した味でなかったことに失望することもよくある。

 回転寿しに飽き足らなくなる時がいずれやってくる。職人気質の寿司屋に入り、カウンターに座って対面形式で職人に自分の好みのネタを注文する。ある程度経験を積み、舌が肥えてくると自分が本当に求める味に出会うためには、このスタイルしかない。時にはカスタマイズしてもらったりして。
 最近の軽いノリのSMブームにのっかっている人は、回転寿しのようなSMクラブでも十分満足できるのだろう。しかし真に個人的な味覚を満足させるような美味しいSM願望を満たす場所としては、SMクラブは物足りない。

 今僕はM側の視点で書いてきたけれど、このような葛藤がクラブに勤める女王様にもあることがわかって興味深かった。女王様が行うセッションにもいろいろな味があり、彼女達が鞭を打つ相手の個性によってその味は変わるわけだ。味つけをする側も、それを味わう側も、それなりに鋭い味覚が研ぎすまされることになり、SMを知らない読者には、未知なる味覚が開発されることになるだろう。

そしてやさしく踏みつぶす―料理人からSMの女王様になったアンナの愛のかたちそしてやさしく踏みつぶす―料理人からSMの女王様になったアンナの愛のかたち
(2008/01)
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[ 2009/02/19 14:37 ] マゾの本棚 | トラックバック(-) | CM(4)

究極の個人情報 



 先日お会いした、僕より10歳年上である a 氏は、自分のM性癖を赤裸裸に語ってくれた。自作の鞭を見せてくれるあたりは「フムフム」と前のめりで話を聞いていたのだが、鼻輪を実際につけてみせてくれたり、ペニスにお灸をのっけている写真を見せてくるあたりではさすがにどん引きである(^^;)

 僕とはあまりにもレベルが違いすぎる。長年付き合いのある女王様とのセッション風景を収録したDVDもお土産で手渡してくれた。ゴルフや星空ウォッチングの話をするのと同じように、とても他人には言えないコトを無邪気に語るa氏。格が違う。年季が違う。僕は将来、このようなマゾヒズトになれるのだろうか?

 SMクラブに限らず、セッションにおいてマゾヒズトは、絶対に他人には言えない恥ずかしい願望を女王様に告白しているものだ。しかし、それは相手が女王様だから、かろうじて言える内容なのであって、同好の趣味とはいえ男の人にそう簡単には言えるものではない。その密室の中だけで明らかになる「究極の個人情報」である。それは文字通り個人差が激しく、人によっては、あるいは経験によっては「ナゼそれが恥ずかしい?」のかわからないほど意味不明なものもある。その趣味のない人々にとっては非常識すぎて理解不能な世界がほとんどだろう。真の願望をためらわずにリクエストできるようになるには、かなり年季がいると思う。

 僕も初めてSMクラブの扉を開けた大学時代は、まさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、それこそ必死にしどろもどろになりながら「が、顔面騎乗が好きなんです」という思いを曖昧につぶやいていた。当時の気持ちとしては「~して下さい」というのが、なんとなく厚かましいような気がしていたのだ。「自分はこういうのが好きなのですが、よろしかったらして下さい」というスタンス。じゃあしてくれなかったらどうなる?それは自分にその資格がなかったのだとあきらめるしかない。今思うと、謙虚というか純粋な時代だった。アレから20年以上が過ぎて40代も半ばを越えてしまうと、「とりあえず顔騎はお願いしたいです」とスラリと言えてしまう自分がイヤになる。にもかかわらず、a氏のように無邪気に言えるほどには至っていない。どこかに心理的なためらいは残っている。

 今や鞭打ちや顔面騎乗などはあまりにもポピュラーになりすぎて、フェティッシュバーなどでも気軽に行われているようだ。先日行った岡山のダリでは、居酒屋ノリで鞭やローソクが行われていた。こうなると、もうあまり恥ずかしくない。「恥ずかしくない」ということは、あまりよろしくない。やはり「恥ずかしい」と」思える行為を、ためらいながらするのがツボだ。すでに恥ずかしくもなんともなくなってしまったことをするのは、たんなるパフォーマンスになってしまい、ある意味では恥知らずと言える。M男の快楽は(僕にとっては)完全には恥知らずになれない段階が、いい。

 オジさんはもう、古いのだろうか。

 なんだかんだ言っても、所詮マゾというのは「恥知らず」でないとやっていけない部分がある。

 それでも「羞恥心」は知っている。最後の牙城というか、恥を知る心が残っている。(と信じたい)

 セッションもクライマックスになってくると、女王様は「ナニが欲しいのか言ってごらん」とお尋ねになる。いよいよご褒美の時間だ。ここでためらっている場合じゃないのに、僕はいつもスパッは言えない。口ごもっていると、「ほら、そのイヤラシい口で、おねだりしてみなさい」と追い打ちをかけてくる。この段階の葛藤が何とも言えず、これを感じたいがためのセッションでもある。

 よくわかっている女王様なら、こちらが何も言わなくても、臨みを叶えて下さることもあるが、「言わなきゃわかんないわよ」とか言って意地悪されるのもまたいい。恥ずかしいことを無理矢理言わされるのもまた喜びなのだ。しかし、自分でも気が引けるほど、心底恥ずかしいと思っていることや、劣等感に根ざしたものなどは、やはりなかなか言えるものではない。
 
 僕はこれまで、心の奥の底にある、闇の中で見え隠れする願望は言ってこなかったような気がする。言いたいのに無意識によってプロテクトされていて、自分にも実際はよくわかっていないのかもしれない。もの凄くビミョーな領域で、概念としてそれがあるのかどうかすら妖しく、言葉にするのが難しい。心理学的には、気が引ける行為というのは、本当に自分が求めているものらしい。意気地なしの僕は、それを本気で求めていないのかもしれない。

 僕は、それが言えない情けない自分でいいと思っている。

 いつか言える日が来るのだろうか。

 それを言える、心を許せる女王様に出会えるのを心待ちしている。





[ 2009/02/14 09:19 ] つぶやき | トラックバック(-) | CM(0)


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筆者に宿る仮想人格:homer



 自分に素直になりたい!そう願っているひねくれ者なのかもしれません。平凡で小市民的な暮らしを営む一方で、過激な妄想世界を漂う、無意識過剰の仮性マゾ。



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