
先日お会いした、僕より10歳年上である a 氏は、自分のM性癖を赤裸裸に語ってくれた。自作の鞭を見せてくれるあたりは「フムフム」と前のめりで話を聞いていたのだが、鼻輪を実際につけてみせてくれたり、ペニスにお灸をのっけている写真を見せてくるあたりではさすがにどん引きである(^^;)
僕とはあまりにもレベルが違いすぎる。長年付き合いのある女王様とのセッション風景を収録したDVDもお土産で手渡してくれた。ゴルフや星空ウォッチングの話をするのと同じように、とても他人には言えないコトを無邪気に語るa氏。格が違う。年季が違う。僕は将来、このようなマゾヒズトになれるのだろうか?
SMクラブに限らず、セッションにおいてマゾヒズトは、絶対に他人には言えない恥ずかしい願望を女王様に告白しているものだ。しかし、それは相手が女王様だから、かろうじて言える内容なのであって、同好の趣味とはいえ男の人にそう簡単には言えるものではない。その密室の中だけで明らかになる「究極の個人情報」である。それは文字通り個人差が激しく、人によっては、あるいは経験によっては「ナゼそれが恥ずかしい?」のかわからないほど意味不明なものもある。その趣味のない人々にとっては非常識すぎて理解不能な世界がほとんどだろう。真の願望をためらわずにリクエストできるようになるには、かなり年季がいると思う。
僕も初めてSMクラブの扉を開けた大学時代は、まさに清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、それこそ必死にしどろもどろになりながら「が、顔面騎乗が好きなんです」という思いを曖昧につぶやいていた。当時の気持ちとしては「~して下さい」というのが、なんとなく厚かましいような気がしていたのだ。「自分はこういうのが好きなのですが、よろしかったらして下さい」というスタンス。じゃあしてくれなかったらどうなる?それは自分にその資格がなかったのだとあきらめるしかない。今思うと、謙虚というか純粋な時代だった。アレから20年以上が過ぎて40代も半ばを越えてしまうと、「とりあえず顔騎はお願いしたいです」とスラリと言えてしまう自分がイヤになる。にもかかわらず、a氏のように無邪気に言えるほどには至っていない。どこかに心理的なためらいは残っている。
今や鞭打ちや顔面騎乗などはあまりにもポピュラーになりすぎて、フェティッシュバーなどでも気軽に行われているようだ。先日行った岡山のダリでは、居酒屋ノリで鞭やローソクが行われていた。こうなると、もうあまり恥ずかしくない。「恥ずかしくない」ということは、あまりよろしくない。やはり「恥ずかしい」と」思える行為を、ためらいながらするのがツボだ。すでに恥ずかしくもなんともなくなってしまったことをするのは、たんなるパフォーマンスになってしまい、ある意味では恥知らずと言える。M男の快楽は(僕にとっては)完全には恥知らずになれない段階が、いい。
オジさんはもう、古いのだろうか。
なんだかんだ言っても、所詮マゾというのは「恥知らず」でないとやっていけない部分がある。
それでも「羞恥心」は知っている。最後の牙城というか、恥を知る心が残っている。(と信じたい)
セッションもクライマックスになってくると、女王様は「ナニが欲しいのか言ってごらん」とお尋ねになる。いよいよご褒美の時間だ。ここでためらっている場合じゃないのに、僕はいつもスパッは言えない。口ごもっていると、「ほら、そのイヤラシい口で、おねだりしてみなさい」と追い打ちをかけてくる。この段階の葛藤が何とも言えず、これを感じたいがためのセッションでもある。
よくわかっている女王様なら、こちらが何も言わなくても、臨みを叶えて下さることもあるが、「言わなきゃわかんないわよ」とか言って意地悪されるのもまたいい。恥ずかしいことを無理矢理言わされるのもまた喜びなのだ。しかし、自分でも気が引けるほど、心底恥ずかしいと思っていることや、劣等感に根ざしたものなどは、やはりなかなか言えるものではない。
僕はこれまで、心の奥の底にある、闇の中で見え隠れする願望は言ってこなかったような気がする。言いたいのに無意識によってプロテクトされていて、自分にも実際はよくわかっていないのかもしれない。もの凄くビミョーな領域で、概念としてそれがあるのかどうかすら妖しく、言葉にするのが難しい。心理学的には、気が引ける行為というのは、本当に自分が求めているものらしい。意気地なしの僕は、それを本気で求めていないのかもしれない。
僕は、それが言えない情けない自分でいいと思っている。
いつか言える日が来るのだろうか。
それを言える、心を許せる女王様に出会えるのを心待ちしている。