
伊藤晴雨が9歳の時に目撃した
女が責められる芝居の場面 は、彼の心の闇を照らした。
光の先に何が見えたのかは不明だが、そのクオリアは時代を越えて今の日本人にも生きている。晴雨の絵など見たこともなかった戦後生まれの子どもたちが、テレビの時代劇で下手人が縛られたシーンを見たのがきっかけとなり、SM的な性癖に目覚めたケースなどは枚挙に暇がない。明治生まれの晴雨と同じ経験を、高度成長時代の団塊の世代やベビーブーマー達もしてきたのである。

緊縛の対象は主に女性であることが多いが、男女に関わらず人間が拘束されている状態には、なんらかのクオリアを生み出す原因があるようだ。「縛る」という行為には、縛る側と縛られる側に、身体的束縛による精神的解放がもたらされる。そのことによって神秘的とも言える美意識が芽生え、縛られた者は芸術的に美しくなり、見るものはそれを賞賛せずにはいられなくなる。
僕はホモではないけれど、ゲイ雑誌などで男の緊縛写真などを見ると、嫌悪感と同時に、見てはならない
禁断の美 とでもいうようなものも、全く感じないというわけでは、ないのではないかもしれない、と言えなくはないかもしれない。
実際、
男の緊縛美というサイトもある。女性だけが美しいというのは性差別であろう。
それはともかくとして、脳科学の分野で、人間が心の中で感じる様々な質感のことを「クオリア」と呼ぶ。意識の中で、物質でも概念でも、音でも匂いでも、<あるもの>が「あるもの」として感じられるのはいかにしてか。それらを感じる存在としての「わたし」はどのように生まれるのか。
「わたし」という意識は、生まれる前はどこにあったのか?
これらのことを科学的に解明するために登場した概念がクオリアだ。科学の進歩が凄まじい現代社会において、もっとも不可解なのが人間である。この世で一番難しいのは、己自身を知ることであろう。
晴雨は責め絵を描くことでそれを知ろうとした。
人間とは何か?を問いかけるために、彼は女を縛り、責め、そして表現した。
そして僕も今、晴雨の絵をウェブで探しつつも、何故だか
椋 陽児のイラストをやみくもにダウンロードしている。こうした意味不明な衝動の中にも、己自身を知ろうとする願望が隠されているような気がする。
どうでもいいのか、そんなこと。

椋陽児氏は、2001年に他界されていました。
遅ればせながら心よりご冥福をお祈りします。