
つれづれなるままに、毎日パソコンに向かいて、ツマラナイ妄想をブログに書き綴っていると、ワケもわからないうちにアブナクなってくる。
最近お気に入りのあるブログを読んでいて、ふと
吉田兼好を思い出しにけり。
そのブログ筆者は女性で内容的にはむしろ
清少納言を連想したりするのだが、やはり日記文学や随筆そして小説などは、女性の書いたものがおもしろいと思う。ブログもその例にもれない。
もしかして吉田兼好は僕と似たようなことを感じていたのではないかという気がする。
鎌倉時代のM男ブログ 吉田兼好が「徒然草」を書いた鎌倉時代、その当時から300年も昔に書かれていた「枕草子」はすでに伝説のベストセラーとして知識階級に知名度が響いていた。現在僕たちが読んでいる「枕草子」はこの時に記された写本が元になっている。源氏物語もそうだが宮廷女性が描く物語や随筆のレベルの高さに、貴族社会にあって男性優位時代の男心がひねくれた。
だから兼行は出家してしまう。貴族とは言っても彼は下の方の階級で今で言うなら地方公務員みたいなもの。どんなに頑張っても、出世も創作活動も無理っぽい。そんなメインストリームから外れたアウトサイダーの視点から書かれたのが「徒然草」であり、負け組の心にしみる隠者の文学としての価値が「徒然草」はあるように思われる。
それに比べて華やかな王朝文化に息づく清少納言の表現は、さながらS女性のブログのようである。

最近僕が読み始めたそのブログも、S女性らしい知的な文体に優れ、それが創作だろうと随想だろうと、書かれる内容にはすべてエスプリが効いている。独特のSM的な「もののあわれ」が感じられる。
M女にしてもS女にしても、女性が書く面白いブログに見られる共通の特徴は「春はあけぼの」とストレートに言い切るところ。表現のスタイルは様々だが、とにかくなんの根拠もなくイキナリ彼女たちは自分の気持ちや考えを述べる。
千年以上も前に清少納言がやっていたのは、自分の「好み」という観点から様々な森羅万象をまるで鞭で打つようにビシバシと言い切ってみせ、その後で「そう思わない人もいるかもしれませんけど・・・」と、一応は慎み深い態度も見せつつ、最終的には「でも、やっぱり私の思うことが正しいのよね!」と自分の意見で締めくくる。
ヒット・アンド・アウェイで巧みに読者を惹きつけるその手法は、やっぱり女王様のSMプレイを思わせる。
こういうスタイルはM男系ブログにはあまり見られない傾向だ。
M男系の場合「どうせ自分はMですから」みたいに妙にへりくだったり、斜に構えるのが好きで、一体ぜんたい何が言いたいのかがわからないことが多い。(特に僕のブログがそうだったりする)
まぁ、これはS性とかM性ではなくて、男女のジェンダー的な違いなのかもしれない。
吉田兼好は女についてこう書いている。
「女というものは、こちらから尋ねるともったいぶって何も言わないくせに、聞かれもしないうちから、とんでもないことをぺらぺらとしゃべり出したりする。女なんて底が知れているのだ。そんな女に男がよく思われようとして緊張するなんて馬鹿げたことだ」 ↑ 僕が思っているわけではありません。徒然草の一節です(第107段)
「引きこもりのオヤジおたくがよく言うよ!」とも思うけど、鎌倉時代の男も、現代とまんざら変らない? 見解を女性に対して抱いているようで・・・ ^^;;;
M女系ブログは言うにおよばず、「聞かれもしないとんでもないコト」を書きまくっているのは、女性が圧倒的に多い。
M男も頑張らなくてはならないと思う。
それにしましても、清少納言のような、タブーに関してあけっぴろげになれることに抵抗を感じない(感じさせない)センスは、平安時代から千年の時を越え、伝統と実績を背負いながら現代に生きる女性にも受け継がれているのであろうか。

↑
吉田兼好が出家したのはマゾだったからという説がある。
↑ ない! ないって (。。)☆\バキ
マルキ・ド・サドの作品などに登場する教会の神父や牧師には、上に「超」がつくほどの変態が多い。
似たようなことが日本の坊さんにも言えるのではないかという気がします…