別にこれまで隠してきたわけではないが、僕は絵が好きで子どもの頃はよく描いていた。
そうはいってもヘタクソで、自分に才能がないのはすぐわかった。
「星の王子さま」ではないけれど、絵描きになるのはあきらめながらも、未練がましく漫画家にはなれるかもなどと思い、ケント紙とペン、スクリーントーンなども買い、コマ割の作品を描いたりしては友達に見せていた。しかし、僕よりも上手な友だちが現れ、再び自分の才能の乏しさ、世間の広さを思い知る。虚栄心からダメもとで出版社に応募したこともある。(もちろん不採用)
好きなのに上手く描けない。
誰が悪いわけでもない普通のことに理不尽さを感じる、ヒネクレた青春時代であった

その頃すでに春川ナミオの絵は知ってはいたけれど、SM雑誌に投稿しようなどという発想はなかった。
自分の不埒な願望と、描きたい世界はその当時は一致していなかった。
というか、意味不明だったと思う。
自分のやりたいことが何かすら、よくわかってはいなかったのだから...
声にならない自分の想いを、ヘタクソな絵に込めていたのかもしれない。
じっと見つめていると、時々何かが聞こえてきそうな絵と出会うことがある。
人の叫び声であったり、風景のサウンドであったり、もしかすると幻聴だったり...
それはある特定の耳にしか響かない何か。
あるいは、自分の声なのかもしれない。
初めて
ブルーノ・シュルツの作品を見た時は、なんてヘタクソなんだろうと思った。だからこそ親近感を持つのだが、何を描きたいのかが明らかなだけに、勝手にシンパシーを感じていた。

シュルツはけしてヘタクソなわけではない。
彼のテクニックを稚拙と見てしまう僕がたんにヘタクソなだけのこと。
絵(絵画)と言うべきかイラストと言うべきか。完成作なのか制作途中のドローイングなのかも微妙な筆致には、「描きたいのに描けない」情念というか焦りとでも言おうか、どことなく魂の声が聞こえてきそうである。
春川ナミオやSardaxのように、けして洗練されたスタイルには見えない。
この二人に関して言うなら、ズバリ描きたいことを描いているが、シュルツのそれはやや抽象的である。
ファジーながらもシュルツにはそれをなんとかして表現しようとする情熱と才能があったのだ。
(そして、僕にはそれがなかった...) 日本では文学者としてかろうじて知られていたが、マゾヒズム絵画のパイオニアとしての評価は
鷲沢弘志が初めて行ったようだ。
SM業界でもマイナーな存在。
もっとも、
Bernard Montorgueil のような
「あからさまな」ポルノグラフィーとしてではなく、
人間の本質を
「ありのままに」描こうとする芸術活動において、
自己のマゾヒズムを純粋に表現しようとしていた点で、一連の Femdom アーティストとは異なるような気がする。
鷲沢氏も指摘しているように、美術史上マゾヒズムを主要なモチーフとして百点にものぼる作品を残した画家はシュルツしかいない。作品をいくら精力的に描いても、美術のメインストリームからは、疎外されてきたのだ。

マゾヒズムは、心象風景としては孤独である。
誰かに言っても、文章にしても、絵で描いてもなかなか理解してもらえない。
自分の中のモヤモヤしたものを、苦しみながら描く。でもそれが楽しいのだ。
それこそ、苦痛と快楽ではないけれどが、苦しみながら楽しむ。
ヘタクソでも描くこの喜びを知っている僕には、シュルツの心意気がなんとなくわかるような気がする。

自分なりにマゾヒズムを描いているアマチェアは多い。
ネットでそういう絵をみかけるたびに僕はうれしくなる。
僕にはそこまでできないだけに、熱心に作品を公開している人たちを羨ましく思う。
万人からは評価されなくても、もっと、もっと描いてもらいたい。

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