どうも近頃は映画館へと足を運ぶモチベーションが上がらない。
ある時期には必ず最低でも月イチで観ていたこともあったのに、今じゃ年に2~3本がいいところ。
その分レンタルやDVDで観てはいるのですが、それ以上にネットからダウンロードする動画の量が圧倒的に増えた。
新作よりも、見逃していた過去のコンテンツのほうに比重が傾いている。
桃☆通で時々新作映画のレビューが読めてありがたいけれど、歳のせいかもう若い人の感性とはズレがあるのだろう。
どうせ金を払うなら、ずっと気になっていた名作、佳作のほうに興味がいってしまいます。
というわけで、長いこと「いつか観てみたいと思ってはいるけど、それをいつにするかは決めていなかった」DVDを買ってみました。
言うまでもなくマゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」の映画化作品。
原作を読んでから観る映画には、たいていがっかりさせられるものだが、これはそうでもなかった。もっとも、原作の持つテイストをはじめから期待していたわけではなかったのだけれども。
ひとつのマゾッホ解釈への関心と、監督がどのように映像化するのかが興味の中心だった。
その監督とは、僕が子どもの頃大好きだった「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」などでカメラマンをしていたマッシモ・ダラマーノ。
ヴィスコンティやゴダール、トリフォーではなく、マカロニ・ウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネの撮影監督として活躍した人物だ。いったいどうしてこのような経歴のイタリア人監督が、東欧の、いってみればマイナー文学を映画化することになったのだろう。
それだけにカメラワークには注目してしまった。それほど必然性が感じられないパンやドロー、ズームなどを組み合わせた画面構成は、見ているこちらがうんざりするほどこだわっているのがわかる。
まったく
よくやるよ ってな感じ。
それを分かって見る分には楽しませてくれるが、ちょっとやりすぎなんじゃないかなぁ。
セヴェーリンがワンダを追う視線の表現などは凝りまくっていて笑えるぐらいだ。
それになんと言っても、さすがイタリア人監督だけあって底抜けに明るい。地中海の太陽のように眩しい。原作の持つアンダーな色彩感覚がまったく無視されているのが不満と言えば不満。
SMがまだサブカルチャーだった1969年という製作年を思えば、しかたがないのかもしれない。
後半のギリシア人が登場する、いわゆる「三者関係」についてはやはり演出が難しかったようだ。
夫が妻を寝取られることに「萌え」てしまうのは、高度なマゾヒズム感覚だと思われるのだが、嫉妬に苦しむだけの単純な図式に終わっているように感じた。僕自身が沼正三の定義するようなトリオリズムを理解しているわけでもないので、何とも言えない部分だけれど、監督だってわかっていたとは言えないだろう。
少なくともマゾヒズムを理解している(と自分では思っている)立場で見ると、違いの分かるM男として楽しめるのだが(自己満足?)、ノーマルな人、つまりその種の性癖のない観客の一般目線からはどうなのかしら?
きちんとエンターテイメント作品として映っていたのだろうか。
この映画でセヴェーリンは性的倒錯というよりもたんに傲慢なだけであり、自分の妄想を理想の女性に押し付けるエゴイスティクなサディストに描かれてしまっている。
(エゴマゾでなくてエゴサド?)
マゾヒストにそういう面があることを否定はしないけれど、このようにネアカなマゾヒズムは少なくともマゾッホ、いやセヴェーリンに関しては当てはまらないように思った。
春川ナミオもマゾッホ顔負けの三者関係を描いている。

愛人とはセックス、夫には顔面騎乗(あるいは、その逆かもしれない?)
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