どれほど精巧につくられた複製でも、それが「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性は失われている。しかし、芸術作品が存在するかぎりまぬがれえない作品の歴史は、まさしくこの存在の場と結びついた一回性においてのみかたちづくられてきたのである。 ヴァルター ベンヤミン 「複製技術時代の芸術」 オーラという言葉は、ベンヤミンがこの著作の中で、芸術作品が持つ一回性の輝きに対して使用してからポピュラーになりました。(本書では「アウラ」という表記(aura:ラテン語で原義は「物体から発する微妙な雰囲気」)
「複製技術時代の芸術」が書かれたのは1936年。映画や写真が大衆芸術として急成長した時代でした。それら複製されたイメージには、もはやオーラはなくなっているというのがベンヤミンの主張です。
しかし、原始時代の洞窟壁画にしても、あるいは古代や中世においても、そもそも絵画は現実の複製でした。
現実の模倣であり、それは真を写すもの、つまり写真と本質的な意味は変わらない。複製だからオーラがないというベンヤミンの思想は僕にはそれほどピンときませんでした。
絵画展などで、ゴッホやピカソの本物を見た時、「やっぱり本物は凄い!」と感動する人がいます。
それが複製画だとしても、その人は気づかなければ同じことを言うでしょう。
「本物だと信じて疑わないから」オーラを感じている。
感動させるものがあるからには、それがCDだろうが、スキャン画像であろうが、オーラは存在し、それこそが芸術作品の本質であると僕はずっと思ってきました。もちろんオリジナルやライブのよさというのもあるだろうけれど、芸術は形相であって、質料ではありません。
逆説的に言うなら、オーラは幻影なのあって、見ているその人にしか見えない。
つまり、目ではなく心で見るのが、オーラなのでしょう。
大切なことは目で見えない。(「星の王子さま」) 初めて雑誌で、印刷された春川ナミオのイラストを見た時、僕は「オーラ」を感じたと思っていました。
ところが、その40年後に、見慣れていたはずの春川ナミオの原画を見た時、僕は全く別のオーラを感じたように思います。ベンヤミンの言う「一回性」とはこのことだったのか!と。
絵画の、それもオリジナルを見ることの出来る人は限られていました。
近代以前の社会においてなら、国王や貴族、あるいは政治家や僧侶にしか評価されなかった芸術は、大衆の支持を受けることはあり得なかったかもしれません。
複製技術が発達したからこそ、近代以降に芸術作品の鑑賞や評価が大衆化したのだと言えます。
この場合、貴族階級と一般大衆の見るオーラは異なるのでしょうか。
今もネット上で無制限に複製を続けている春川作品に、はたしてオーラは残っているのでしょうか。
春川ナミオの描く世界がその鑑賞者を選んでいる。一見すると大衆芸術とも言えそうですが、むしろ大衆には理解し得ないジャンルなのだとも思います。
それとも、貴族であろうが大衆であろうが特定のマニアにしか評価されない作品....
春川作品が放つオーラに、一般性、普遍性はあるのかどうか、それを確かめてみたくなりました。
僕の手もとには今、北川プロから預かってきた原画と、eichanから借りたサン出版からの流出原稿が大量にあります。
僕は完璧に俗物ですが、それらをしげしげと眺めていると、「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性を見ているような気がするのです。
そして、この一回性のオーラを、マニアだけでなく一般の人びとにも、心の眼で見て欲しい。