
イトーさんのブログが逝ってしまいました。
突然ブログが閉鎖されるのはよくあることですが、今回のはちょっと寂しい。
ネット空間からアクセスできなくなるだけとはいえ実質的には関係性の消滅を意味します。
リアルな人間関係にだって、同様のことは起こりうるものですが、これからもお友達でいたいのに、わざわざ縁を切るという宣言がなされるわけで、これはツライです。
だからといって、アポとって会ってお茶を飲むというところまで、なかなか持ち込めないような気もするし....
ネット社会の発展は、人間の関係性を微妙に変えてきたように思う。
例えば、最近は何かちょっと気になることがあっても、人に直接、気軽に質問しにくいんです。
ググってみれば?(Googleする=ググる)
つまり
ネットで検索すれば? などと、たいていこう言われてしまうのです。
メールやBBSで書かれるならともかく、目の前でそう言われるとなんとなく凹んでしまう。
ちょっとそのネタで会話してみたいだけかもしれないのに、それが拒絶されたかのような気になる。
(つまり、それは婉曲的に拒絶されたのであろう、僕という個人が...)
インタラクティブで豊かなコミュニケーションを実現したかに見えるネットワーク・ツールは、現実には空虚なムードや会話も同時に生み出してきた。
誰につぶやいているのか意味不明なツイッター。
横顔すら見えないSNSのプロフィール。
本当に大切なことを口では言わず、どうでもいいことを何度もメールする。
自分が興味あるものへの情熱をネットやウェブはサポートしてくれる一方で、
その網は「無関心」というフィルターを他人に向けている。
この「マゾ花」が典型的な例だが、自分の変態性をわかってくれそうな人たちにだけオープンな、ある意味では極端に閉じたブログだ。
食べログや旅ログ、読書ブログや恋愛ブログなど、一般のブログにしても似たような思潮風土はある。
同じコミュニティー内で親睦の輪を広げようとして、異端を排除するシステムなわけである。
しょせん自分のことなど他人はわかってくれない。 わかってくれそうな部分だけを共有しあって、他の部分はとりあえずスルーしておく。
そうすることでお互いに傷つかず、なまぬるいがそれほど不快でもない動的平衡が持続する。
肌と肌がふれあうような交流も、チャットや出会い系などで即座に可能となっているようだが、
Wi-Fiや光ケーブルで繋がれた人間関係というのは、やはりどこか虚しいような気がする。
きっかけとして利用し、その後しっかりとした絆が芽生えればそれにこしたことはないけれど、
なんだかんだいって僕たちが生きているのは
「今、ここ」しかないのだ。
たわいない話とはいえ、二度とありえないその瞬間を、共有することのできる喜び。
それは、時空を越えたかのように見えるネット社会においても同じこと。
たとえ直接会うことは叶わなくても、ネットでアクセス可能ということは、いつかは会えるかもしれないという関係性の持続が期待できる。
極端に閉じた世界でのこの種の関係性というのは、とても貴重なものだろう。
そこにもやはり、「今、ここ」にしかない、かけがえのない絆が存在している。
目に見えない絆を確認するためには、やはり顔面騎乗しかない。 女性のお尻が顔の上にのっかった瞬間に、「今、ここにしかない」刹那が生起する。
顔面騎乗は失われつつある人間性を回復させてくれる魂の故郷なのだ。
そして人はいつか死ぬ。
僕は女性のお尻の下で死にたい。
あれ? なんの話でしたっけ(^^)
なんとなく「イトー節」のような感覚で書いてみたつもりですが、あの名文がもう読めないなんて、本当に残念でなりません。
きっといつかどこかで、またお目にかかれる日がくることを願っております。
その日まで、お元気で、イトーさん!