
内容は原作小説の映画化ではありません。
マゾッホの原作を舞台化しようとしている演出家(兼脚本家)と、そのオーディションを受ける舞台女優の物語です。
ストーリーは主演二人のダイアローグのみで進行する対話劇で、オーディションで使われる台詞は原作の文言から忠実に再現されています。
だから原作を知っているかいないかで、かなり印象は異なるものになりますが、それがいいのかわるいのか、どちらが面白く感じられるかは正直わからない。
原作を読んでいなくても楽しめますし、先に原作を読んだからネタバレになるということもありません。
しかし原作を
知らないと損をするネガティブな面 が多いとは言えそうです。
毛皮を着たヴィーナス(河出書房新社)
このアイテムの詳細を見る 僕は個人的には、偉大なるマゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」をダシにして、悪意はないにせよコケにしているかのような印象を受けましたけれども、ある意味では「期待どおりに」僕の期待を裏切ってくれました。
つまり「見た後で失望するんだろうなぁ・・・」という予測は外れたのです。
予想に反して面白かったし、違和感なく作品世界に入っていけたのは、僕がまがりなりにもマゾヒストであったことの証であったと思えます。
映像的にも「今風」で、21世紀の今日、見るべき作品として位置づけられる傑作でした。
ポランスキー監督を見直しました。
僕は原作を過去30年間で10回以上は読み込んでいましたし、英訳も読み、最近はSardaxの新訳でも再読し、そのついでにまた日本語訳も読んでいました。
Sardaxの翻訳本(電子ブック版)
この作品への思い入れが相当強く、今回は気合いを入れて見たのでした。
僕としてはこの映画を「シナリオ」として楽しむことが出来ましたし、それはオプションのようなものであったけれど、この作品に関して言えば重要な要素となっています。
一般的に原作本を読んでからその映画版をみると、多くの場合失望する可能性が高い。
しかし、冒頭で述べたように「原作の映画化」ではないのでその心配はないでしょう。
かなり巧妙に換骨奪胎され、原作の持つ世界観の鮮やかな映像化に成功しています。
小説「毛皮を着たヴィーナス」はまず文学作品として素晴らしく、そのよさを堪能するには、ヨーロッパの文化や芸術、歴史的な背景知識や教養が欠かせません。
ティツィアーノ「鏡に向えるヴィーナス」

この絵画も映画にチラっと(複製画の絵はがきとして)登場する そもそも原作の持つ醍醐味とSMの世界観への理解抜きには語れない部分があるので、小説を読んでおくことが必修科目ではないにしても、選択科目として履修しておくのが望ましいのは確か。
マゾッホはペダンティックな文体、作風を持つ作家ですが、ロマン・ポランスキーにも似たようなところがあります。
この映画の装置としてのステージ上で展開される劇中劇の構成は、演劇の手法としてはおなじみのスタイルで、そこはシェークスピアの時代から変わっていない。
しかしここで新しいのは、マゾヒストがSMプレイの中で常に行っている自分自身の「劇中劇」が加わっている点です。
入れ子構造が3つになっている。観客である僕たちは・・・
1. まず映画で展開する普通の(ひとつ目の)お芝居を見ます
2. それを演じる映画俳優はいわゆる劇中劇(2つ目)の中でワンダとセヴェーリンを演じる。
3. その純粋な「劇中劇」の最中に、予期せぬ支配と服従という第三の舞台が造り出される。
ここら辺りの演出が実に見事で、SMクラブなどで普段(恐れ多くも)女王様を演出した経験を持つマゾヒストであれば、なるほど!我が意を得たりと膝を打つでしょう。
マゾヒストは、この映画の主人公トマ(マチュー・アマルリック)のように、あるいは「毛皮を着たヴィーナス」のセヴェーリンのように、崇拝する女性に支配されているようでいて実は支配し、演出しているのです。
それは茶番劇のようでありながら、実人生と演劇の確実な、それと同時に曖昧なボーダーラインを実感する瞬間でもある。お芝居を鑑賞している時の異化効果は、SMプレイの時にも作用している。
女優に関しては最初の頃、いや既に映画製作発表時から「なんだこのキャスティング?」と失望して、映画を見ようとするモチベーションを一段階盛り下げてくれたエマニュエル・セニエ(監督の奥さん)でしたが、その最初に感じていた僕の、いや他の多くの観客も感じたであろう嫌悪は、映画冒頭でトマが感じたものと同じです。オーディションを受けに登場したワンダを見た時に演出家として失望した感情と同じでしょう。
それがいつのまにやら、観客視線でもトマと同じように彼女の虜となり、精神的な奴隷として堕ちていくのを追体験できる。
理想と現実。
支配しているかのようで、実は支配されている。
いや、支配されていると思うのは妄想なのか?
リアルとファンタジーの境目を行ったり来たりしているうちに恍惚となっていく。
力の反転の美学。
そういう意味では、「ヌける」手応えがありました。
自分がマゾヒストでなければわかり得ない部分かもしれません。
マゾであればこそ、味わい深い感動と理解ができたような気がします。
つながっていなかった「服従回路」がつながった。
この映画はけして変態向けとは言えないけれど、まともというにも少し危ういものがある。
変態趣味のない健全な人であれば、毛色の変わったラブストーリーと評価してくれるのでしょうか。
限りなく変態に近いノーマルな人にはうってつけとは言えると思う。
SMの微妙で深い世界を知ることで、見る人の感性がより豊かになる。
このことは、見る人がノーマルであろうがアブノーマルであろうが関係ありません。
なので普通の女性が見ても「女子力」を向上させてくれるであろうし、新人女王様はもちろんのこと、
挫折しそうなアンポンタンでも、
すでに
「人気女王様」となられているベテランまで
海千山千のS女性様にもぜひ見て頂きたい。
もちろんM男には特選イチオシ映画です。
ちなみに僕が観にいった時は、年末の平日の朝イチにも関わらず、いい感じのご高齢な夫婦や若い男女のカップルがいっぱい行列を作っていました。
男一人は目立ちます(>_<)
映画を見る前から「M男ひとりぼっちの公開羞恥プレイ」が楽しめますよ〜!
↑ イトーさんへ(^^)今年の夏から一応は楽しみにしていた、という関連記事
↓
ロマン・ポランスキー監督「毛皮のヴィーナス
Sardaxから贈られてきた書籍バージョン
■ 毛皮を着たヴィーナス マゾッホの原作小説について
■ マゾとサドはどちらがより変態か?
■ サドとマゾッホの会話
マゾ:マルキ=ド・サドさんは、多少のMっ気があるでしょう?

サド:多少どころか、実はドMなんだ。