
今年1月、「谷崎文学と肯定の欲望」などの著作でも知られる作家の
河野多恵子さんがお亡くなりになり、今月になってようやくお別れの会が行われました。
その席で
山田詠美が挨拶をしていたのにはやや意外な気がしたのですが、芥川賞などの選考委員も務める傍らで、若手を発掘、後進の指導育成にも熱心だった河野氏と接点があったとしても不思議ではありません。
山田詠美が河野多恵子や、谷崎潤一郎のマゾヒズム文学を正統的に継承しているかどうかはともかくとして、1988年に発表された「ひざまずいて足をお舐め」は、「SM的なるもの」をモチーフにした文学としては当時最もインパクトがありました。あの時代にはまだ、現代文学でまっとうにSMを、それも女王様ものをダイレクトに扱った作品は希有だったのです。
沼正三のように「男性作家」ではなく、女流作家によるマゾヒズム文学(今風にわかりやすく言うならM男向け文芸作品)という金字塔は、河野多恵子によって打ち建てられたのですが、山田詠美の作品の中には、その流れを受け継ぐものがあったようです。
在日米軍黒人兵との大胆なセックスを描いた「ベッドタイムアイズ」でデビューしてからちょうど30年。山田詠美もすでに大御所的存在となり、その節目に河野多恵子氏への弔辞を読み上げたのには感慨深いものがありました。
その執筆動機が「谷崎をギャフン(←もしかして死語?)と言わせてみたかった」という「賢者の愛」は、なるほど確かに「痴人の愛」へのオマージュというよりは、谷崎文学やその愛好者の神経を逆撫でするように挑発的ではある。
例えば河野多恵子の「みいら採り猟奇譚」のように、暗示的なサドマゾヒズムを格調高い手法で描くのでなく、もっと下世話で、ありがちなステージに置き換えた倒錯、つまりわかりやすい変態ライフを現代的に描くことにかけて山田詠美は秀逸でした。
SMを含めたアブノーマルな性癖や願望は、本人にとっては単純なのに他者にとっては難解。
これを万人向けにわかりやすく伝えるというのは巧みの職人芸のようなものであり、それを成し遂げた偉大な文豪が谷崎だったのです。
身も蓋もない言い方になってしまうのを承知であえて言うと、SMっぽい行為や表現というのは、実はけっこう馬鹿げている。
跪くなんてまどろっこしい。本心では這いつくばって足を舐めたい(>_<) ←ばかげてる! しかし、そもそも恋愛自体が馬鹿げているわけだし、愛とは愚かで意味不明なものだとも思うのです。
谷崎は愛に溺れるおバカな男を、「男子的」な視線で純粋に描いたにすぎないのですが、しかしそれだけでは一般の人を含めた多くの共感を得ることは出来ない。
僕のような「谷崎系マゾヒスム」を持つマイノリティは、本当は自分が馬鹿ではないと信じているバカな「賢者」とも言えるかもしれません。こういう矛盾した感覚、概念もマゾヒズムです。
しかも、Femdom(=女性主導)とか言いながら(マゾッホ風の)男が主導するマゾヒズムを信望してもいる。
「賢者の愛」は、これとはまさに逆向きのベクトルで、女性が主導する、「女子的」なロジックで描かれます。
従来の保守的なサドマゾヒズムの神経中枢を引き裂くような快楽があるように感じました。
谷崎のように日本の伝統的(すなわち男が主導権を握る)美意識をベースとした筆致とは明らかに異なります。
山田詠美については、品格とは無縁のヤンキー娘が俗物的な恋愛を描いてきた、という誤った印象を持っていた僕でしたが、この新作では見直しました。
というよりも、これまで見くびっていた部分が大きすぎてごめんなさい(>_<)と、しきりに反省したのでした。
「賢者の愛」バーチャル挿し絵

主人公の真由子は、親友に初恋の人を奪われ、子供を妊娠し結婚されてしまった。
復讐のため、生まれた親友の息子、直巳(ナオミ)を自分好みのマゾに調教していく。
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