コミュニケーションと言葉 今、僕たちのコミュニケーションの方法は実に豊かで多様な環境となりました。
スマホやツイッターというツールだけでなく、お互いを結ぶコミュニケーションのあり方そのものが、様々に異なるようになり、複雑となり、意思の伝え方や気持の表し方に変化が生じているように見えます。

だから、お互いを結ぶはずのコミュニケーションが逆に、お互いを隔て、違えるようにもなりえるのです。
たった一日でも、スマホやネットを開かずにいると、誰かのツイートを見逃しただけで流れについていけなくなったり、疎外や孤立を感じたりすることもあります。
情報を「シェアする(=共有する)」という言い方が定着したわりには、共通の言葉をシェアすることが難しくなり、お互いの間に馴染みのない言葉が増えてきています。
みんながよく知っているような言葉であっても、それぞれに意味するもの、人によって了解している内容が同じではなく、意味や解釈を共有できないでいる言葉も少なくありません。
今、時は春。
桜がきれいなこの季節は、おそらく誰にとっても
「顔面騎乗」が思い浮かべられるでしょう。

それなのに、別の人は「乳首に針を刺す季節である」だとか、「一本鞭のシーズン開幕!」と言ってみたり、気候や雰囲気は同じ春であっても、人によって様々に違っています。
言葉というのは、たった一つの決まった意味しか持たないのではありません。
無数の人々の、様々な記憶や行為、出来事や感情、気分がそこに重なっていく場所が、ひとつ一つの言葉です。
春という言葉ひとつにも、ロウソクや浣腸、お馬さんごっこという豊かなイメージをいくつ重ねることができるますか?
そこになぜ「射精管理」という言葉は登場しないのでしょう。

桜の美ははかなく一瞬であるのと同じく、勃起したペニスの射精もはかない命です。

貞操帯は春の器具と言えなくはないでしょうか。
「春は足フェチ」の季節といってもかまわない。

暖かい春だから全裸放置プレイというのもありです。もちろん羞恥の春でもいい。
「緊縛の春」「Whipping Spring(鞭打ちの春)」「首輪の春」
「春はあけぼの」であり、「針はあけぼの」でもある。
冬ばかりが毛皮の季節ではありません。
ラバーの春も、ゴムの春も、聖水の春も、春には無限の可能性があります。
乳首責めの春。
ペニス散歩の春。

しかしなんといっても、春の喜びは顔面騎乗の喜びです。
顔面騎乗の喜びは何かというと、これまた人によって千差万別です。
ある人にとっては窒息感であったり、究極の女性崇拝願望であったりします。
別の人にとってはアナル奉仕ということになる。

この他、一般的な奴隷願望や畜化願望、物体(便器)化願望など。
劣等感や被虐の意識、羞恥の美意識・・・等々、etc…
今日の社会において、コミュニケーションが乏しいと言われる時、本当に乏しいのはコミュニケーションではなく言葉です。
コミュニケーションを豊かにするためには、言葉を豊かにできなくてはなりません。
顔面騎乗と言えば、圧迫や窒息などの苦痛系の責めと同時に、聖水や黄金、そしてアナル奉仕などのご褒美系のプレイも含まれるのだという認識が大切になります。
春という言葉の属性に、顔面騎乗をイメージできる上記のボキャブラリーを思い浮かべることができない時、あるいはできない人は、言葉が不足しているのではないでしょうか。
言葉の数が少なければ、その質も低くならざるを得ません。
言葉を増やすことは、感性を豊かにすることでもあります。
コミュニケーションを豊かにするために、感性を磨き、語彙や言葉を増やしていきましょう。