「エムさん」を読んでいると、独特のこだわりと哲学が登場します。
まともな神経では理解に苦しむ意味不明さの中にも、視野を広げてくれる貴重なきっかけが潜んでいる。僕のように、つねづねマゾヒズムの哲学に深く思いをひそめている者には、それが心に刺さる。
「希望調教」という、SMの世界では昔から知られている概念があります。
しかし、その意味するところはあまり明確には知られていないような気がする。
一般的には、「女王様から調教されるのを希望する」ということなのでしょう。
より正確には、
マゾが希望することに限って調教をお願いする。
ここで言う調教というのは、不本意なことでも強制されて行うことに快楽を感じる倒錯です。
「希望しない調教」を好むマゾは、その
「希望しない項目」を希望しているわけです。
澁澤龍彦的にペダンティックな表現をするなら、精神が肉体の共犯者となり、魂が屈服する。
しかし本当に不本意なことはやっぱりイヤなので、許容範囲内でという条件付き。
希望する内容で支配され服従する ある意味で矛盾したプレイとも言えるでしょう。
今さら言うまでもなく、そういう矛盾に満ち満ちているのがSM本来の姿。
言葉を裏返せば「希望しない調教
可能」なわけでもある。
イヤだけどいい(>_<) その曖昧なグレーゾーンを見極めるのが難しい世界です。
SMクラブの女王様は、無限に広がるその曖昧領域を見極めるプロ。
相当ハイレベルな接遇のスキルが求められます。
高級で上等な接客は、しかるべき場所で多額のお金を払えば受けられると思われているようです。
しかし高度でありながら、意図的にレベルを下げるような手抜きサービスというのは、要求してもなかなか実現されにくい、かなり難しい接客ではないでしょうか。
風俗業界で就活される女性が、よく「楽そうだから」とSMクラブの女王様を安易にイメージされる風潮が見られますが、とんでもない誤解です。
「手抜き」という表現が適切ではないのかもしれませんが、その人にハイレベルな接客のスキルがあるのに、あえて低レベルなサービスをさせるというのは、わけがわからない上に相当メンドクサイ。
エゴマゾによる意味不明なストーリー・プレイには、この種のものが多い。
放置プレイや人間家具(便器ではない)などは、何がどのタイミングで希望を叶えているのか?
それを言葉で単純には説明できない。
SMプレイにおけるストーリーは、たんなる設定やコスチュームだけではなく、人間の感情に触れる微妙な演出が含まれる。だから、台本どおりに台詞を正確に言えばよいというものではありません。
もっと複雑で高度な満足感がこのプレイには期待されているのです。
それは、台本のト書きに書けるような具体的指示で実現されない。
その実現が困難であるから、「完全希望調教不可」などと明記せざるを得ないのです。
エロ目的のスケベな欲望を封じるのとは別に、もう一つの意味がある。
「本当は希望を叶えてあげたいのですが、難しいです」 これが、このメッセージの真意だと僕は思っています。
ズバリ「局部奉仕不可」と名言している女王様もいます。

その一方で、オプションで認めている女王様もいる。
問題になるのは、鞭で打ったり、縛ったりという肉体の支配ではなくて、魂の誘惑。
精神的に屈服する(屈服させてもらう)ことの難しさ、その重要性をプレイヤーがお互いにきちんと認識しないまま、不用意にストーリープレイを行うと、その劇は破綻します。
文字通りの茶番劇となってしまうことが多いですが、筋立てがおかしくなってもある程度の納得というか、満足できてしまうのもこのプレイの不思議な魅力です。
お芝居では、つまり実際に本番の舞台では予期せぬハプニングやアドリブによって、想定外の感動が得られることもあるからです。

エムさん(の作者)はおそらく、誠実に己の願望をカミングアウトし、「物語」としての依頼内容を伝えたのにも関わらず、その不完全なお芝居の結末に失望したことがあるのかもしれません。
しかし、「完全な希望」の実現以前に、思いがけない「不完全な希望」が実現され、そちらの方がよかったという発見もあった。
それまで眠っていた別のマゾヒズムが覚醒し、新しい快感を得たことにより、より深くて複雑な倒錯にのめり込んでいったのではないかと推察されるのです。
SMの奥深く、そして悩ましい点は、常にワンパターンな性風俗的快感を求めるのでなく、それまで知らなかった新たな感動に出会える可能性にあるような気はする。
気がするだけですが。 それでも、
嫌なものはイヤなのです(>_<)、と 絶対に冒険しないマゾも、いるにはいる。
少なくとも、希望しないことにはその希望は実現されない・・・
しかし勇気を出して希望すれば、それが例え面倒な、面倒くさい、わかりにくい、意味不明なエゴマゾのワガママであったとしても、誠実に対応して下さろうとする女王様もいらっしゃるのです。
そのように信じているのですが、何か間違ってますでしょうか?
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