
名前は思い出せないけれど、「この絵は間違いなくあの画家のものだ!」という確信が持てる時、そこに芸術の核心があるのだろう(シャレでなくてね)
ラファエロの気品やマルセル・デュシャンの品のなさにも、そういう本質的な要素があった。
西牧徹の鉛筆画からは、そうした挑発的な声が聞こえてくる。
いかにも昔のSM雑誌に挿し絵として使われそうな、独特のレトロ感が懐かしい。
かといって古めかしいわけではけしてなく、斬新な復古主義と言えようか、少し腰の引けた前衛芸術といった趣も漂うフェティシュアートを、画家本人は「黒戯画」と名づけている。
昔、ヴァニラ画廊で見かけて以来、なんとなく右脳の片隅に残っていた残像は、僕の中ではとりあえず異端の画家というタグが付ついていた。
何をもって「異端」と呼べるのかはわからないのだけれど、僕にとっては例えば春川ナミオであったり、鏡堂みやびであったり、暗藻ナイトであったりする。
それらを悪趣味と呼ぶ人もいるけれど、異端の味覚に趣味の良さは必要ない。
なにやら過激な画像は全て「異端」というタグでくくっておくことで安心できる。
かつて
伊藤晴雨も異端の絵師と呼ばれた時代があった。
それは一般の理解を得られないという孤立や疎外からくる印象であり、評価する者が増え、多くの人に共有されてしまうと、それはもう「異端」ではなくなる。
「異端」を愛するものにとって、異端というタグが外れてしまうとその価値はなくなるとは言わないまでも、半減はする。つまり魅力を感じなくなる。
近親相姦や同性愛も異端なのであろう。
多様性の許容と、異端を排除することに因果関係はあるのだろうか?
LGBTの権利や価値観が認められつつある現代、ゲイやレズはまだ異端という立ち位置にいられるのだろうか?
僕は同性愛について無知であり、時おり、偉大な芸術家がホモであったという事実を尊重こそすれ、自分とは無縁の世界と感じていた。
差別はしないかわりに、特に親しみも感じられない。
なので、その思い入れに変動はない。
三島由紀夫よりは谷崎潤一郎が好きなのは、サドかマゾかというよりも、ゲイかヘテロかという違いによるものだったように思う。
西牧徹の作品には、マゾ男が女性緊縛絵画を見て恍惚となるようなエロスがほとんどないにもかかわらず、なんとも不思議な一貫性があり、フェティシズムの魂を揺さぶる感動が、どこかにある(ような気がする)
よくわからないからこそ「異端」でもあり続けるものに、神秘的な芸術性を感じる。
黒戯画家・西牧徹展「果樹園の狩猟のための9つの小品」 
札幌
ギャラリー犬養 2016年 11月9日〜11月14日

*展覧会場では画集の他、西牧徹氏の自費出版散文詩集も販売されます。
■ 西牧徹 展 (2009年5月7日付エントリー)
■ ヘンタイでごめんなさい(会田誠展)
■ Nanshakh's Vault
■ 椋陽児(2009年4月27日付記事)
■ ジョン・ウイリー
■ 女性の足の匂いつきサクランボ
■ 伊藤晴雨
■下手でもパワフルなFemdomアート
■ 春川ナミオの芸術
