夏目漱石アンドロイドに目が点になった。
その一方で、人工知能がクリエイトする「明暗」のラストを読んでみたいとも思った。
今年は夏目漱石の没後百年。今日はその命日です。
■ 我が輩はマゾである

別にこれまで内緒にしていたわけではないのですが、漱石は好きな作家というよりも、別格であり、全てにおいて他の文学者を凌駕しているような気がします。
おそらく多くの皆さんも、似たような思いを抱いているのではないのでしょうか?
大学時代に漱石研究で知られる中島国彦先生の講義を受けたこともあって、卒業後も何度か読み返しており、今年も「猫」と「こころ」を懐かしく読みました。何度読んでも、これらの作品にはそのたびに新しい発見があります。
僕が子どもの頃、文学と言えばよく知りもしないのに夏目漱石という初期設定が既に出来上がっていた。
あるいは根拠もなく、芥川龍之介や川端康成などの大御所に、思春期の視野の狭い文学&マンガ少年にとっては絶対的な権威が感じられて、夏目漱石も実はたいして好きでもないのに読んでいたような気がする。
後から思えば、自分が本当に好きだったのは、谷崎とか三島のような「非主流派」みたいな?勝手な誤解をしていたのでした。
時を同じくして、己の内部にマゾヒズム的な感性が同時多発的に芽生えており、ゆがんだ精神に悩んだ時期。
妄想やいびつな願望を満たしてくれるコンテンツを模索するウブな少年だった自分のことを今思い出して、なんだか涙が出そうになってくる。
夏目漱石もイギリス留学時代に鬱病になった時期があったそうで、まぁレベルは違うのだろうけど漱石作品の多くに共感できたのは、似たような「こころ」のメカニズムを共有していたからだと、こじつけ的にでも思いたい。
「こころ」のような偉大で有名な傑作は、読み手の精神面、知性や恋愛経験によっても様々に解釈が可能であり、特にどういうSMプレイを好み、やってきたかで評価は大きく分かれるのだと思われます。

顔面騎乗ばかりを望んだりしている自分の本性は、突き詰めるとエゴイストいう見方も出来るのかもしれない。

人間の本性とは何か。

少なくとも自分にとっては(その程度はゆるくても)マゾヒズムが自己の心を構成する一つの重大な要素であり、なくてはならないものだと思います。

そしてそれは、エゴイズムとは切り離されたものであって、崇拝する女王様のために自我を消し去り、誠心誠意尽くす奉仕の「こころ」であるということを感じる。
「こころ」の語源は「凝る」だという説があるそうです。
そうだとすれば、心にもマッサージが必要で、こころのしこりを揉みほぐすのが、顔面騎乗だと言えるでしょう。
鞭打ちでも緊縛でもなく、誰が何と言っても顔面騎乗こそが「こころ」の拠り所なのですが、何か問題ありましたでしょうか?