恥ずかしい思いがしたい。あるいは、恥ずかしいことをして欲しい。
よく耳にするフレーズですが、これを口にした瞬間から、既に「恥知らず」と化し、もう恥ずかしい気持ちは消滅しているように思えます。本当に恥ずかしかったら、言えないはずで、言えたということは、もう恥ずかしくない。
この予測可能な羞恥心は、かろうじて「ハズカシイ」と疑似的に信じているだけなのではないでしょうか。
SMプレイの多くは、とても人に言えない、見られたくない行為という意味で恥ずかしいものがあるとはいえ、やっている本人にとってはそれほど恥ずかしくない。むしろ嬉しい。
よく女王様から
「恥ずかしいのがウレシイくせに」と言われるのはまさにその通り。
だから慣れてくるとだんだん恥ずかしくなくなってきて、恥ずかしがっているフリをしなければなりません。
(それでも、やっぱり
少しだけ 恥ずかしいけど…)
昔のSM小説で読んだ、女性が後ろ手に縛られて浣腸され、まさに排泄する直前に
「お願い、見ないで〜」というあの台詞。

あれは心の中で「私の恥ずかしい姿を見て見て〜」と叫んでいた。

マゾヒストでも、普通の男の読者の立場で女性の排泄シーンには
まったく興味がないというわけではありません。まどろっこしい言い方しないで ↑ 好きって言え (。。)☆\バキ 羞恥に悶える女性の表情(を想像して)萌えていたと同時に、それを己の身に置き換えて悶えてもいた。

M男には「いや〜見ないで〜」という台詞は似合わない 当時は、このようなハシタナイ想像をするだけで恥ずかしく、自己嫌悪に苦しんだものです。
↑ とかナントカ言いつつ、コーフンもしていたのだけれど(^^)
一歩引き下がり、恥ずかしがっている他者の姿を見るのも、見ている自分がなんだか恥ずかしくなってくる。
それにしても、恥ずかしいM男を描かせたら右に並ぶ者はいない暗藻ナイトにしては、M女のえぐい排便姿をもこれほど恥ずかしく表現できるとは驚きです。

本当は見られたくないのに、強制的に見られてしまうのが究極の羞恥だとすれば、心のどこかで見られたいと願っているからには、ゆるい、中途半端な羞恥心です。

暗藻ナイトのコミックマゾの世界のように、強制的に見られる公開羞恥プレイが毎日のように続き、感覚が壊れてしまって、もう人に見られないと排泄や射精ができないような身体・心理に調教されてしまうというのも恐ろしいけれど... 魅惑的でもある。

* 都築響一 「妄想芸術劇場」より引用「恥ずかしい」という心理には、曖昧で、揺らぎがあるようで、そのブレ幅が大きければ大きいほど、恍惚と快楽の度合いも高まるような気がしています。
だから僕は、いわゆる「浣腸プレイ」や、女王様の前で排便するようなセッッションは老後の楽しみにとっておこうと思う。
なるべく人生の最後の一歩手前までは、真に「恥ずかしい」という気持ちを残しておきたいから(>_<)
女王様に浣腸されて我慢させられるのを「想像するだけでも恥ずかしい」段階から、一気に女王様の目の前で排便をせざるを得ない状況へワープするのは、これは絶対に死ぬほど恥ずかしいに違いない(>_<)

「いや〜見ないで〜」と言いながら排便するのは、チョー気持ちいいかもしれない。
しかし、そのためには、羞恥心が残っていなければならないのです。
認知症になる前に、恥ずかしいという気持ちを忘れないうちにやらなければなりません...
この難しい自己矛盾を解決するのが、迫り来る高齢化SM社会の課題でしょう。
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