今年
「奇想の系譜展」と題する、江戸美術の絵画展をとても興味深く観ました。
この流れでぜひとも、春川ナミオについて語りたいところなのですが、その前に、明治時代から大正、昭和にかけて活躍した
伊藤晴雨を経て、昭和における後継者として突出した存在感を示した
須磨利之という絵師について触れてみたいと思います。
またの名を喜多玲子。このブログでも何度か紹介していますが、1970年代のSM雑誌で美濃村晃というペンネームでも知られる「奇想の人」です。
かつて「奇譚クラブ」の編集者として腕を振るい、挿絵やカットを描き、緊縛師としてはモデルを縛り写真も撮影するという才気煥発になクリエイター。そして、もしかしたらこの人は詩も書いていたのだろうか?と思われる痕跡を古いSM雑誌から「再発見」しました。
花は おしつぶされて 屈辱が身をせめる
涙が乳房を伝うと けだものが それをみて嗤う(笑う)
からだのひだに 喰いこんでくる縄は
泣き声を誘って
ああ、花が濡れ 屈辱が身をせめる (1971年 SMセレクト 8月号)

なんというのか、刺激に満ちたSM雑誌のキャプションにしては、素朴な味わいがあります。
ここでは、「屈辱」という言葉が、僕の心に刺さりました。

鑑賞者は、詩や絵の対象が感じている屈辱に共感することで悶える。
羞恥と似ているようで、少し趣が異なります。
須磨が描く女性緊縛絵図では、羞恥よりも屈辱にスポットライトが当たり、女性はおそらくマゾではない。気位の高い貴婦人が、責めの結果として将来的にマゾとして堕ちる可能性はあるにせよ、強い意思と誇りで責めに抵抗しようとする姿に、鑑賞者は心打たれる。

本来なら、サディスティックな女王様として、男を屈服させるべき資質を持つ女性が、不本意ながら責められるところに官能的な美を見いだし、S男性もM男にも、いやSMとは無縁なノーマルな鑑賞者にも普遍的な感動を与えることに成功しているようです。
これと対照的なのが
椋陽児の筆致で、彼の責め絵においては、無垢な少女はもう抵抗を諦め、屈辱を受け入れて羞恥の表情を浮かべています。

それがやはりS男性にもM男にも受けた。
須磨は、本人にMっ気があったかどうかはともかく、SM雑誌の編集者として、男性マゾヒズムにも深い理解を示しており、S男性向けが主流だった当時のメディアにおいて、M男向けを意識した企画やコンテンツが目を引きます。

SM自体にまだ市民権がなく、致命的にマイノリティだった男性マゾヒストに寄り添う姿勢は、当時としては異端の、その意味で「奇想の絵師」と呼べるのではないでしょうか。
「裏窓」編集部時代の須磨利之(左)と右は濡木痴夢男■ 万華鏡〜抒情と緊縛
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