
恥の多い生涯をおくってきました(>_<)
ボケ〜としていたら、いつのまにか平成が終わって令和が始まっている。
その令和元年もすでに下半期。
僕は来年、還暦を迎えますが、思い返せば昭和の終わりにバブルがはじけて「失われた三十年」の平成が始まった時、60歳はガチで年寄りに見えた。
30歳の僕にとって、60代の老人はすでに「終わった人」(>_<)
その60代にまもなく突入する今の僕の心境としては、まだ全然終わってない(>_<)
あの頃に知遇を得た先輩方(当時50代〜60代)の訃報を、最近耳にするようになっても、僕自身には、老いて死が間際という意識は全くない。
とはいえ、もちろん「これからの人」という意識もない。
バラ色の未来は見えず、人生に悔いや羞恥心がたくさん残っている。
それでも、それなりに楽しかったし、マゾ人生も充実していたんだと思う。
思い出だけが通り過ぎて逝き、今の風景は静止画として残らない。
人生は美しいアルバムじゃない 視力の悪さもあるのでしょうが、世の中の景色がかすんで見える。
人生は、美しくなくても、撮れなかった写真のようなものかもしれません。
「失われた世代」を代表する米国の批評家マルコム カウリー の
「八十路から眺めれば」によると、老化の目安は
美女と街ですれ違っても振り返らなくなった時 なんだとか。
現代では社会の空気をつくるのはSNSで、換言するなら、Twitterやブログで美しい女王様を見かけても、そのつぶやきが心に刺さらなくなるということか・・・。
「いいこと言ってるな」とは心の中で思っても「イイネ」をポチるほどでもない。
馬之介パイセンは「イイネ」押しまくっていますが、この感性、行動力は見習いたい。
ミスター
Sardax もいい歳こいて勢力的につぶやき、リツイートしまくっている。
少なくとも平成の時代は、ネットで画像や動画をむさぼるように追い求めていたように思うのですが、そのモチベーションが最近下がってきているような気がするのは、気のせいだろうか。

かろうじて救いなのは、体力や性欲は衰えても、「マゾ欲」だけは昔のまま変わっていない。
マゾヒズムも厳密には性欲の一種で、倒錯という名のセックスみたいなものなんだろうけど、街で見かける美人とすれ違い、振り返って見ても「寝たい」とは思わず、ただ単純に
踏まれてみたいとか、
跪きたいとか、可能であればその後で
足を舐めさせて頂いたり、顔面騎乗されてみたい とか、
そういうことだけはいつも考えているのですが、何か問題ありましたでしょうか?
人生は下り坂でも、マゾとしての妄想力だけは臍を固めて、かすんだ景色に目を瞠って逝きたい。