
今さら言うまでもないことですが、女王様というのは、存在そのものがすでに芸術だ。
だから、その身体や表情が撮影されたならば、その写真は必然的に、爆発なんだ!
などという意味不明な期待と勝手な思い込みで、現在、六本木で好評開催中の、
柊一華写真展「ガールズ」を観てきました。
今どき「女流カメラマン」などという言い方も、不適切になってしまうのを承知であえて言うと、なるほど、確かに女性が撮影したんだろうな、と感じました。
よく被写体との距離感や信頼関係といった項目があがるけれども、やはり現役プロ女王様による撮影であり、モデルとなった同業者達も、仲間意識とでもいうのか、少しまったりした、いい感じでゆるい!というのが、僕の個人的な感想です。

SMクラブの女王様なんて、腹を括らないとできない。
その強さがあればこそ、一瞬に垣間見せる優しさも美しく光る。
それは、芸術の創造性が生み出す緊張感というよりは、どことなくリラックスした雰囲気が感じられて、心地よい。
もしかしたら、女王様が何かのはずみで見せる、調教ルームでマゾが目撃したかもしれないものが、そこにあるような気がした。
今回の展示作品を眺めていてふと頭に思い浮かんだのは、以前、このBlogでも紹介した、
フォトグラファー・Kazukiさんのこと。
*許可を得ず、無断で掲載しています!(たぶん) Ⓒイタリアの雑誌「NU」から。現役時代の朝霧リエさんと京子女王様 「女王様撮らせたら、この人!」的な存在感があって、昔はよく北川プロの女王様達を撮影されていました。
真逆とは言えないまでも、少なくとも男目線というフィルターを通した女王様像であり、今回の「ガールズ」とは印象的なコントラストを感じます。
何がどう違うのかよくわからないけど、どちらも魅力的であり、真実なのでしょう。
篠山紀信曰く「写真は時代を映す鏡」とも言われるように、今やインスタやTwitterで見ることのできる写真(画像)も、まさに時代を映しているように見えます。
厳密には画像データとして端末に保存されたような無数のイメージは、現代性を象徴する曖昧かつ具体的なアートの素材にはなるのであろう。
それらがどう爆発するのか。あるいはしないのか。

フランスの哲学者で批評家のロラン・バルトの有名な写真論「明るい部屋」に、「写真のエクスタシー」というフレーズが出てきます。
それは「エロティックな写真による興奮」( エッチな写真 )という意味ではない。
写真には、「撮る人」と、「見る人」が存在する。
撮る人も見る人の一人となり、そこにはもう一人、別人格として「撮られる人」が存在する。
つまりその写真に写っているその人です。
(もちろんその被写体も後日、「見る人」にはなる)
このヴァーチャルな他者の視線は、世阿弥のいう「離見の見」に通じるものがある。
「撮る人の思い」と「撮られる人の思い」そして「見る人の思い」が交わることにより、共感も生まれれば、反感も生まれるでしょう。
写真の魅力とは、この「感じる」ことと、「感じ方の違い」にあり、この差異によりコミュニケーションが生まれる。

これをバルトは「写真のエクスタシー」と表現したわけです。
見る人の数以上に差異は生まれ、共感はカオスとなる。 ネットによる拡散と勘違いのうねりも加わり、新たなエクスタシーが生まれているのかもしれない。
昭和の時代には、お店の指名アルバムや雑誌広告でしか拝めなかった「女王様」像を、今回このように、印画紙に焼かれた、昔ながらの「写真」として、しかもギャラリー空間というパブリックビューイングにより、つくづくと味わいながら眺めてみることにより、あらためて写真のエクスタシーというものを感じるのです。
スマホではなく、この大きなサイズで見て今回はっきりとわかったのは、女王様の存在感というのはやはり偉大なる芸術であり、僕の心の中でいつ爆発するやもしれぬ危険な魅力に満ちあふれているということなのでした。
エッチな意味でなくてね(>_<)
いや、少しはエッチなんだけれど・・・ (。。)☆\バキ

*主宰者の許可を得て撮影・掲載しています(たぶん)柊一華写真展・ガールズ港区六本木4-5-2 B1
atmage Tel:03-3479-0055
2019年 10月19日まで
■ SMは爆発だ!