
今さら言うまでもないことだけど、マゾヒズムは、自分が服従したいから、自ら望んで女王様の奴隷となるような、ある意味で矛盾した願望なんだと思う。
人により、「痛い目にあいたい」とか、「恥ずかしい思いをしたい」など、倒錯のバリエーションが様々とはいえ、基本的に主体的で自律的。
一見すると不自由な印象でも、自ら望んでいるわけで、これ以上の自由はない。

だから、マゾヒズムとは、究極の自由を謳歌する贅沢なファンタジーとも言える。
女王様としては、嫌がって抵抗する奴隷を屈服させる「自由」はない。
それは、男がその女王様のことが好きで、ナニされてもいいという覚悟を持ったマゾヒストであるのが必要条件だからだ。
そうではない相手を無理矢理支配するようなことは基本的にNGであり、無理でしょう。
犯罪や虐待になってしまう。

しかし、違法や悪行であっても、それらを楽しめる「黒」のサディズムも、残念ながら存在するのかもしれない。
女王様やS男性に話を聞いてみると、責めるからには相手に望まれるからであり、相手を好きになれないと楽しめないし、良いセッションにはならないとのこと。
そもそも、まずそのように理想的な相手が存在するかどうか、出合うことが出来るかどうか、が問題となる。
奇跡的な一期一会で巡り会えたとして、崇拝する自由より、崇拝される「不自由」のほうが難しいように感じる。
演技では崇拝できても、「心から崇拝せよ!」という命令形に、本当に従えるマゾヒストは存在するだろうか?
お互いに共同幻想を抱きながら、適当なところで折り合いをつけている、というのが実情であろうと思うのです。
そこのところに、不自由さを感じざるを得ない。

まぁ、そうはいってもSMクラブなどで、自分の好みのタイプの女王様を見つけることが出来たなら、あとは崇拝するだけだ。
本来は性格的に崇拝できない相手なのかもしれない女王様でも、セッションにおいてはマゾにとって理想的な仮面を被ってくれるのがプロの女王様。
そして、そうした微妙な機微を理解し、忖度して無難なセッションに仕上げてみせるのが逝けてるマゾなんだろう。
マゾが主導する茶番劇に参加する女王様にとっては、不可解な、いや不愉快な面もあるかもしれない。
そのようなカオスと謎の果てに、両者双方共になんらかの快楽を期待する。
しかし、崇拝されたり、人から尊敬されるには、努力が要るのに比べると、マゾが女王様を勝手に崇拝するのには、それほど努力は重要ではない。能力はあまり意味がない。
好きになれるかどうかで、スキルはいらないのだ。
どうしても好きになれなかったならそれまでで、それなりのレベルのセッションで我慢するしかない。
そう考えると、マゾヒズムっていうのは、つくづくエゴイスティックであり、自由で気ままな性癖だなよなぁ〜って思う。
そんなマゾを相手に、満足感を与える(あるいは、与えなければならない)女王様はタイヘンだし、やはり偉大だ。
心の底から、尊敬している。崇拝せずにはいられない。
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