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Fem-Dom アートはよくワカラナイという声を耳にします。同じようなことを絵画や現代美術においても、そのようにおっしゃる人も多い。
僕は「正しい絵の見方」というのは、あってもなくても構わないと思っています。
自分の目で見て、自分の心で感じることが叶えば。
学芸員や画家を目指すような人ならともかく、趣味で美術鑑賞をする分には気楽に眺めるだけでOKです。
アーティストの意図やテーマ、時代背景など気にしない。
もちろん、ディテールを知っておくのはよいのですが、必須ではありません。
ピカソやゴッホやフェルメールなど、ここ数年の日本で開催された美術展を見ていると、偉大な巨匠レベルの作品の横には、長い解説がついている。それらを熟読して、何かをわかったような気になって、結局は絵そのものを、自分の目ではきちんと見てはいない人もいるのではないでしょうか。自分がそうだから言うわけではないけれど、もちろん、そういう見方があっていいと思うし、むしろそれで普通かも。
言葉では言い現せないから「絵で描いているのよ」というジョージア・オキーフの作品や、ジャクソン・ボロックの抽象絵画などは、いきなり見ても何がなんだかよくワカラナイ。
でも何かを感じることはできる。「ワカラナイ」という感じ方も、一つの見方。
明るい、暗い、不気味、楽しそうなど、解説文や他者からの推しコメントでなく、自分の言葉で何か感想をひと言でも言えれば、それで一つの立派な見方が達成できている。
Fem-Dom アートに話を戻すと、ある特定の性癖や嗜好にのみ刺さる、限定的で狭いカテゴリーの絵が多いでしょう。多くの場合、自分が好きな妄想に沿ったイメージを追い求める世界だと思うのですが、「こんなの絶対に無理」っていう絵でも、強烈なインパクトがあり、いつのまにか惹き込まれる時があります。
そのような感覚は、一般のノーマル・アート(ピカソ・ゴッホ・フェルメール)などにもあります。
「なぜ自分には、この絵が刺さるんだろう?」と思える作品に出会えるのは、幸福だと思う。

イギリスの Sardax のこの絵は、僕に胸騒ぎを与えてくれます。
逆さ吊りなんて自分ではやってみようなどとは絶対に思っていなかったけれど、この絵を見て思わず、「今度やってみよっかな〜」と思わせてくれた。えへペろ (>_<)
女王様の顔と、男のアソコがこれほど近い位置にあるのは滅多にないことで、しかも男の顔も女王様のアソコのすぐそばにある。女王様は男のアソコをじっくりと観察しているのか、微笑んでいるようにも見える。
信頼関係がきちんと構築されている女王様となら、この展開には悪魔的な魅力があると思います。
男の表情は恐れているのか、何かの期待に胸を膨らませているのか、彼が今この状況で何を考えているのかを想像するのも楽しい。
我慢汁が滴り落ちているところからみても、この後でいったいどういう素敵な物語が始まるのだろうという妄想に、僕の胸もアソコも膨らむのです。

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欧米の「ぷらチンポ」