マゾヒストは社会の表舞台に出ることがまずないから、差別が明るみになることはない。むしろ差別されることを喜び、されたとしても、それを問題視しないであろう。
しかし、マゾヒズムという思想は皮相の見では差別されているように感じる。マゾヒズムという性癖、意識、欲望、妄想、行為、それら全ては忌まわしい、蔑みの対象となり、表現の自由というテーブルにさえ上がることが困難なのだ。マゾヒズムそれ自体の歴史は古く、人間の本能、本質的な部分にも関わるのに、なぜこうも不合理な扱いを受けてしまうのか。マゾヒズムという思想が、偏見や侮蔑的な見方をされることは、理不尽ではないのか?
マゾヒズムの発生起源や成立過程についてはまだよくわかっていない。この分野の研究は21世紀の今になっても立ち後れている。

いったい「何」がマゾヒズム衝動の引きがねとなるかは、類推や仮説の域を出ず、これまで放置プレイにされてきて、勝手な憶測や迷信が蔓延している。
現代のマゾヒズムは、例えば幼少時の心理的トラウマや、社会的な抑圧、そしてネットなど様々なメディアの影響、セックスにおける前戯的で健康的なものから、身体改造やリストカットなど病的で深刻なものまで実に多種多彩である。それら個々の原因についても早急な解明が求められるが、文化人類学や考古学的にも、人間意識の起源においてマゾヒズム発生の瞬間はいつなのか、どうやってこの種の願望、幻想が芽生えたのかといった根本的な学術研究すらない。いや研究そのものが一種のタブーになっているのが実情である。
この分野ではフロイトが初めて「死の欲動と性愛の生命欲動」といった文脈で論文を発表したが、リビドーとの関連でマゾヒズムの存在を指摘するにとどまり、しかもそれは健康や生命の脅威であるという、無根拠で誤った見解を広めてしまった。
命名者のクラフト・エビングでさえ、性的倒錯という病的な見方で定義し、文学者としてのマゾッホの名声を葬り去ってしまった。おそらくマゾヒズムへの差別はこの時から始まったものと考えられる。これら近代におけるマゾヒズムのネガティブな発見過程の弊害が今現在も続いている。もしマゾヒズムなるものを真剣に研究テーマに選ぼうものなら、その研究者もマゾではないかと疑われる恐怖感が、この種の研究に心理的・社会的なブレーキをかけてきた。
我が国においても、種村季弘や谷崎潤一郎、遠藤周作、そして沼正三など、マゾヒズムについてまともな言説を残してきた先人達は皆マゾヒストであった。彼らの言うことはマゾヒストが理解しやすいのは当然としても、マゾヒズムを理解できない人間にマゾヒズム研究が不可能ということはないはずである。より客観的で偏見のない中立的な視点で、マゾヒズムは再評価されるべきなのだ。
昨今、にしおかすみこや
イチローのM発言などの影響もあり、マゾヒズムへのカジュアルな関心が高まりつつある。ウシロメタイ変態性欲というイメージから脱却し、ポジティヴで明るい見方でマゾヒズムを認識する気運を盛り上げていきたい。
「顔面騎乗に花束を!」の撮影現場にて(六本木 mode et baroque )

あるマゾヒズム的衝動が、北川プロでの作品制作へとかりたてた...
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