
監禁されるということは、自由を放棄するという風にも思える。
しかし自ら望んで監禁されるのならば、それは自由意思による服従であり、本人にとって「不自由」ではない。
監禁され、放置されている彼にとって、そこには自由を超越した快楽のネオ・ファンタジアが広がっている。
先日、某SMバーで会ったある外国人のカンキン&ホウチ・プレイを目の当たりにして、この世界の奥深さに触れることができたような気がする。
その彼は「ワタシ、カンキン 大好きあるネ」と、ワカッテんだか、ワカッテないんだかわからんぐらい能天気に言っていた。
それまでは、お店のママである女王様と監禁とはあまり関係ない普通の(?)SMプレイを愉しんでいたのだけれど、何か粗そうをしたらしく「監禁」されることになる。
どういうことかというと、まもなく閉店時間なので、店をクローズして、彼を拘束して放置したまま店に残し、みんなで食事に行きましょう!ということになったのである。
彼はアナルに異物を挿入されながら不安定なポジションで座らせられており、半分座りながらも、つま先立ち状態が維持されるよう後手縛りで吊られている。
そういう微妙なセッティングにするまでの間、女王様は
「オマエ、カンキンだからね」と、
いわゆる「決めセリフ」のような殺し文句を繰り返す。
そのたびに彼の目はウルウルし、ド一パミンが明らかに分泌されているのがわかる。もうとにかくあっちの世界に「逝っちゃっている」のである。
文化の違いから言葉の使い方にズレが見受けられるが、ここでは「カンキン」と「ホウチ」はほぼ同意語で、彼にとってスイッチとなるキーワードが「カンキン」のようであった。
明日はお花見かいという季節でも夜はまだ肌寒い。暖房を入れて僕たちは店を出た。
当然のことながら、安全衛生面には十分配慮され、きちんとしたケアーの保証された「放置」プレイの開幕。
僕に言わせると、あまりエキサイティングとは思えない、たんなる「お留守番プレイ」なのだが、あんなキワドイ状態で1時間も2時間も本当に大丈夫なの?と少し気がかりな思いを抱きつつ、僕たちは美味しいヤキトリに舌鼓を打っていた。
その時にふと、僕自身が、放置されている彼の「鑑賞者」であることに気づいた。
僕はいつの間にか、彼のファンタジーに配置された舞台装置の一つと化していたのである。
そういえば西欧のマゾヒズムには、自己の苦痛を誇示するための他者が必要だという説が思い出される。

キリスト教の殉教者には、偉大なる栄光のため自分たちの受難が目撃されることが重要であった。
今この瞬間に彼が直面している状況は、ハプニングのようでいて、実は綿密に計算されたシナリオの一部であり、監禁し、支配しているように見える女王様でさえ、彼の妄想舞台の上で演じるキャストにすぎない。
彼の描く台本が破綻することはないのだろうか?
想定外のアドリブによる反乱が起こった時、その舞台はどうやって幕を引くことができるのだろう?
「何かあっても最終的には(お互いの)気持ちの問題だと思う」 女王様はそんなようなことを言っていた。
人間関係は台本どおりにいかないものだ。
それは筋書きのないドラマである。
彼の脚本に次のような台詞があったかどうかは知らないが、女王様はこうつぶやいた。
「そろそろ帰ってやろうかしら・・・」 宴たけなわではあったが約2時間ほどでお開きとなる。
女王様が店に戻ると暗がりから「オカエリー、ヤキトリ美味しかったの〜?」と悲しげな声が聞こえたてきたそうな・・・
「チョウ〜楽しかった :) ありがとう!」と言って、そのヘンな外人マゾは帰っていったという・・・
僕には見慣れぬプレイだったから勝手にハラハラ・ドキドキしていただけで、馴染みの観客にとっては「予定調和」のエンディングだったようだ。
僕にサディズムの「サ」の字でもあれば、もっと美味しくヤキトリを頂けたのかもしれない。
彼のあのウルウルした表情の中に、マゾヒズムの栄光を垣間見たような気がした。
そうかといって、やってみたいとは絶対に思えないんだけど(>_<)
*このエントリーは半分ぐらいノン・フィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて実在のものです。■ 放置プレイ
妻が変態行為に興味がなく、実は買物に行ってしまったと彼が気づくには数時間を要するだろう 放置プレイにもいろいろあるもんですね〜
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