
マゾ男が女王様に対して望む本音、それはやっぱり「エロ」なのだと思う。
タテマエや芸術に逃げた「エロティシズム」ではなく。
ハッキリと言えばいいんだ。例えば
「アソコを舐めたい」 って。

でもイキナリそんなこと言ってしまうとみもふたもない。
もっとこう、ロマンティックに行きたいではないですか。
そこに「顔面騎乗」などという(文学的?)表現が登場するわけである。
もちろん苦痛だ羞恥だという、ノーマルな人々には理解しがたい要素やメンタリティも関わっている部分もある。しかし、セックス自体苦痛を伴いながら快感を得るものだし、一般的に(初心者は)他人の性行為なんてものは見ていて恥ずかしい。人それぞれ快楽のツボが異なるから客観的にみると別のカップルのスタイルや体位には滑稽ともいえるくらいの違和感を感じることだってあるでしょう。言うなればセックスというのはとても個人的な「エロ」行為なのである。
SMプレイにもおそらく同様のことが言える。同じマゾでも、顔面騎乗のファンにとっては、脚を舐めたり、乳首に針を刺されたりすることには魅力を感じない。だけどそのパーソナルな願望を実現するプロセスにおいてエロが存在しないことには満たされない。ここで何がその人にとって「エロ」と感じるかがポイントになる。それは相手のルックスや体型であったり、声や匂いであったり、または状況であったり、身につけているものの色や質感であったりする。全て個別であり、多くの人が感じるから自分も感じるというものではない。具体的に特定するのは困難ではあるけれど、あいまいに「エロ」というものがあれば、それはエクスタシー、つまり快感への扉となる。
逆に言えばエロの扉は全てに開かれているとも言える思う。こだわりの顔面騎乗ファンであっても、針や鞭にエロを感じるきっかけがつかめれば、それは快楽になりえるのだ。
自分がこだわるエロに変化が生じれば、性癖も変わると思う。
「ちょっとだけFemDomかな?」で触れられている「性癖はすすむもの?」というのは、一つにはそういう側面があるのではないだろうか。貞淑な妻が見られて感じるようになったりするのも、すすんだ性癖の結果といえるのであろう。あるいは従順な妻が、夫を辱めることに性的な喜びを見いだしたりするのも進化である。性癖はすすむ。そしてマゾヒズムやサディズムも進化し発展するものだと思う。
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