恥の多い人生を歩いてきました。
命というのは、生から死、そして死から生へと繋がっていくのでしょうか。
2016年という年は、プリンスやデビッド・ボウイ、アース・ウィンド&ファイアーのモーリス・ホワイトなど、僕の世代には影響力の大きかった、ミュージシャンやアーティストの訃報が相次いだ年だったような気がします。
つい先日もジョージ・マイケルさんに続いて、ショッキングな訃報がダブルで届きました。
「レイア姫」女優キャリー・フィッシャーさんの母も死去
「雨に唄えば」のデビー・レイノルズさん あのレイア姫が「雨に唄えば」のデビー・レイノルズの娘さんだったとは知っていたようで、知りませんでした。
母子ともにご冥福をお祈り致します。
別に隠していたわけではないですが、「雨に唄えば」は十歳の時に初めて観たミュージカル映画で、トラウマ的に大好きな作品。
今でも脳裏に焼き付いているメモリー画像はコレ。

この映画のメイン・キャストはジーン・ケリー、デビー・レイノルズ、ドナルド・オコナーの3人ですが、シド・チャリシーが登場するこの一幕は、とても印象に残っています。
純粋にダンスシーンとしても素晴らしいのはもちろんのこと、10歳の僕には刺激が強すぎた。
僕はダンサーの脚線美の魅力にこの時目覚めたのです。
踊りでなく女性の脚に目が釘づけになる癖、いわゆる脚フェチの性癖がこの時から生まれたような気がする。
(それ以前から、顔面騎乗への情熱は持っていたのですが・・・)

「雨に唄えば」のワンシーンから、こういう画像が好きになるきっかけをもらった そういう意味で(何が
「そういう意味」なのか、意味不明か?)僕のSM的ファンタジーには、ミュージカル的な思い出が深くリンクしています。
ミュージカルというのか、音楽的感性、そして文学やその他の芸術的情趣とのつながりは、僕の変態性リビドーを支えている。
随分昔、もう30年以上前になりますけれども、老舗SMクラブから六本木へ暖簾分けしたあるお店での「豪華調教ルーム」は、実際は古いマンションの和室で、近隣住民への配慮から、必ず悪趣味でウルサいBGMを流してプレイが行われていました。
僕はそれがイヤで、できることなら静かなクラシック音楽でもかけて欲しいと思っていた。
ある日ある時、「大きな声は絶対に出さないから、無音でお願いします」と懇願してみたけれど、それは叶いませんでした。
そして、案の定、ヒイヒイ言わされてしまったのでした(>_<) 顔面騎乗をされる時の僕の脳内には、シュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」のメロディが流れています。
顔面騎乗こそは、「性」を超越した、永遠の快楽と苦痛との輪廻転生物語だと思います。
どうでもいいか、そんなコト。【心に沁みる関連エントリー】
■ 顔面騎乗の想い尻
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