前回の椋陽児のエントリーの続きで、戦後のSM文化から
伊藤晴雨に補助線を引いて、日本のSM史を辿ろうとする試みを続けてみる。
伊藤晴雨といえば近代日本におけるS男の代名詞的存在であり、須磨利之や団鬼六など戦後SMのパイオニアに多大な影響を与えたキーパーソンだ。江戸浮世絵の流れを受け継ぐ最後の「人間国宝」みたいな人物である。
日本のSMにとってエポックメイキングな出来事といえば、やはり第二次世界大戦であったのは間違いない。「家畜人ヤプー」の
沼正三や「
奇譚クラブ」の
須磨利之は帰還兵だ。戦争による心の傷が、彼らのSM精神に与えた影響ははかり知れない。
それ以前に遡って、日本のSMを語る上で注目すべき事例としては関東大震災であろう。もっともこれらの二つのダメージは全ての面において日本に深刻な影響を及ぼしてはいたのではあるが、日本人の心に近代的SMというものが芽生えて行く端緒にフォーカスして見つめてみたい。
関東大震災(1923年9月1日)で、伊藤晴雨は家財や自分が描いた多くの作品を消失していた。この時晴雨は41歳。画家としての最盛期。この傷心がバネとなって、より過激な責め絵創作のエネルギーが充満していったのではないだろうかと勝手に推測している。この時に焼けてしまった作品の中には、竹久夢二のモデルでもあり妻(入籍はせず同棲していた)でもあったお葉の責め絵があった(らしい)。
お葉は夢二と出会う前に、晴雨の愛人であった。美人画の巨匠竹久夢二の描いた女性が、伊藤晴雨の責め絵にも登場していたことはあまり知られていない。夢二と晴雨は同世代の画家である。
関東大震災を期に時代が動いたもう一つの事例として、雑誌「苦楽」の創刊(1924年1月)がある。江戸川乱歩の「
人間椅子」が発表されたのは、この年の「苦楽」10月号だ。

そして何の偶然か時代の必然なのか、同じこの年の3月20日から「大阪朝日新聞」紙上で谷崎潤一郎の「痴人の愛」が連載されていた。この大衆小説で描かれた女性崇拝思想とお馬さんごっこの遊戯は大きな話題となり「ナオミズム」という流行語も今に伝わる。

日本のSM文化を語る上で欠かすことのできないキーワードである「責め絵」「人間椅子」、そして「お馬さんごっこ」の3つが、関東大震災を軸にぴったりと並ぶ。これにはいったい、どのような意味が隠されているのだろうか。
大正時代から昭和にかけてSM的なる意識の萌芽は、当時の知識人の間にじわじわとしみ込んでいったのである。
どうでもいいか、そんなこと。
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