
30年前に、僕はいったい何を考えていたのだろうか?
平成がまもなく、終わろうとしている今、この時代を振り返ってみるのもいいかもしれない。
若い頃は、SMプレイで満足の逝く内容を実現させたかったので、とにかく、自分の願望の「見える化」に努力していたように思う。
春川ナミオ画伯の作品などを利用し、Femdomアートのイメージに託したりしながら、模索を繰り返していた。

プレイがチグハグになるのは、その可視化に失敗し、女王様へ自分のメッセージが伝わらない時だ。
相手がプロでも、プライベートなご主人様であろうとも、このことは同じだと思われる。
いや、あらゆるコミュニケーションにあてはまる道理でもあろう。
何も考えずに、実現されることではない。

しかしSMというのは奥が深く幅も広く、何も考えない方がいい時もあるから不思議だ。
そういう奇跡的なセッションを一度でも経験すると、結局は相性とか、感性の問題になる。
それらの合わない人とは、いいセッションは出来ないのだろうか?
誰とでも合わせられるものではなかろう。 これがSMの大きな前提で、もちろん可能な限り合わせる努力はするし、そのためのスキルが存在するにしても、最終的に残念な結果になりえる場合があるのを、想定しておいたほうがいい。
相手次第、状況次第、努力次第、あるいはタイミングや関係性の持続時間という属性も含め、様々で複雑な要素がある。それらを考えると、とても無思想でプレイできる気がしない。
昔、90年代に、観念絵夢というAV男優がいて、マゾ思想ということを言っていた。
ー「マゾバイブル」(太田出版)ー
世紀末を生き抜くにはマゾ思想しかない!
そこまで言わなくても、思考は常に大切な行為で、いろいろなことを考えてしまうのは、仕方ないのではなく、必然だと思われる。
そう考えると、確かに、「何も考えない」ことのほうが負担が少なくて楽かもしれない。
だが、ここに大きな矛盾があることに気がつく。
もし僕が何も考えていないのであれば、それは意図的に努力して「何も考えないぞ!」ということを考えているにすぎない。
無思想の発見ではないけれども、雑念も含めて、脳内にはなんやかやが渦巻いている。
そこまで取っ払って、完全に真っ白な状態にする(なる)には、相当な修行を積んだ達人でないと無理だと思う。
妄想も、無秩序な思考なのだ。
マゾヒストは、その無秩序を楽しむことが出来る達人とも言える。
例えば、マゾ目線で言うと、全て自分の思い通りになるSMプレイはつまらない!と考える。
だから、「必ずしも全てが自分の思い通りには
ならない」プレイを望む。
(あるいは、「少しだけ、自分の思い通りにならないプレイ」を望むとか)
または、お相手して下さる女王様が楽しめるプレイを希望する。
これって結局、全て「マゾの思い通り」なプレイとして取り込まれることになってしまうんだよな〜(>_<)

どこか、間違ってますでしょうか?
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