
日本のSM文化は戦後の「奇譚クラブ」を皮切りに一気に噴火したかに見えるが、マグマのように地中深くで戦前からその活動の兆候はあったのだと思う。言葉は存在しなくとも、人々の心の闇にサドマゾヒズムの原形が芽生えていた。それはいつからだったのか?
縄文時代や鎌倉時代にまでは遡ることは難しいが、近代に入りかけたころの、様々な文献資料からその起源の足跡を推測することは可能だろう。
江戸時代の刑罰史や明治以降の警察の調書などに「やち責め」というスラングが見られる。「やち」とは、今でもどこかの地方に伝えられる女性器の方言だ。つまり女性の陰部を責める拷問のことである。責めるといっても犯したり苦痛を与えるわけではなく、指などで挿入の直前に止めて焦らすやりかた。これをやられるとそれまでどんなに酷い拷問にも耐えてきた容疑者も自白したらしい。ご褒美にオーガズムを与えるというやり方は、SMプレイの基本である。
このような形式の拷問がいつごろ開発されたのかは謎だが、よく言われるように女性は男性よりも肉体的苦痛に強いためだという説が有力だ。それもあるだろうが、お上や官憲は近代以前はほとんどが男であり、男の性欲またはサディズムが刑罰システムの中でイビツに発展してきたのではないかと僕は思う。残酷な拷問スタイルは洋の東西を問わず太古の昔からあるわけだが、このような快楽責めの方法はあまり聞かない。日本独自のアイデアとまでは言わないけれども、「やち責め」は大正時代の末頃まで行われていたという記録が残っている。そしてそのイメージはアンダーグランドで継承されていった。
大正時代と言えば、あの伊藤晴雨が活躍した時代。女性が責められる様式美を芸術の域にシフトさせた日本のSM史のパイオニアである。「奇譚クラブ」の産みの親でもある
須磨利之は伊藤晴雨の弟子筋にあたり、団鬼六にも思想的に多大な影響を与えている。

伊藤晴雨は幼少より絵が得意で8歳で尾形光琳の流れを汲む高名な絵師に弟子入りした。
9歳の頃に見た芝居の折檻場面がきっかけで女性の責めや髪の毛に執着する性癖に目覚めたと伝えられている。おそらく自慰やセックスへの興味以前に、この種の(SM的な)魅力に取り憑かれたのではないだろうか。
なんだかわからないモヤモヤしたもの。それを責め絵という形式で表現した晴雨。彼が自覚したSMのクオリアはけして突然変異ではなく、日本に古来から伝わるDNAからの隔世遺伝だったのではないか。それを感じ取ることが出来た大正時代の先駆者達の中には、例えば江戸川乱歩や谷崎潤一郎らがいた。彼らの作品を通じて、SMのクオリアはおぼろげながら人々の意識に広がっていったと想像されるのである。
どうでもいいか、そんなこと。
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