挿絵画家としての春川ナミオは、あまり語られてこなかったような気がします。
他の作家による情景であろうとなかろうと、春川ナミオの作品世界には、それだけで強烈なプレゼンスを感じさせる独自の普遍性に満ちている。

しかしそうはいっても、これは確かに、春川さん特有の世界観とは、ややズレているのかも?という感はあるかも鴨川。
先に春川さんが絵(コンテ)を描いて、それに合わせてライターがストーリーを構成するとは考えにくい。
むろん、そういうことがあってもいいし、春川さんの力量ならば、それはそれで面白いと思う。
春川さんには「処刑島の女王」という漫画作品(絶版)もあるし、ストーリーテラーしての才覚は素晴らしいものがある。
言うまでもなく、小説の主役はやはり「物語」であり、例えば、
泉鏡花の文学に魅了され、鏡花の小説に挿絵を描くことを夢みて画家になった
鏑木清方のように、画家と小説家に精神的に密接な繋がりがあるのが理想です。
物語と絵の関係性は対等でありながら、相対的で、補完的でもあり、総合的に見るべきではあろうとは思う。だが、この種の小説では、自分の性癖や願望とどれだけリンクする部分があるかどうかの方に注目しがちであり、ストーリーはそっちのけで、絵的イメージを先に追いかけてしまう僕のような読者もいる。
なにしろ昔のSM雑誌には、男性マゾヒスト向けの小説は、
団鬼六さんのような文芸レベルの作品が希少だった。

仮に物語の中で自分的にお気に入りの描写があったとして、その箇所がどのように絵で表現されているのだろうかと思いを巡らせても、多くの場合、そこの部分は描かれていない。だから自分で脳内に描くしかない。
そこで読んだ文章に、文学的な表現だけで、詩的に感動してもよさそうなものなのに、自分が見たい絵を勝手に春川さんタッチで脳内に思い描いてしまう。
絵のインパクトの方に読み方が引っぱられていく。
主人公が仰向けで顔面騎乗されているのか、うつ伏せ、あるいは四つん這いになって奉仕しているのか。そうしたアングルまで読み手側のオプションになってしまう。
いわば「春川色」というレイヤー、またはフィルター越しで物語を読んでしまっている。
そんな挿絵画家は希代な存在だと思います。絵が主導権を握っている。
ある意味で、春川ナミオは鏑木清方を越えている。

大正時代から昭和初期にかけて活躍した有名な挿絵画家に、
岩田専太郎という人がいますが、小説の内容よりも、彼の描く女性描写に魅せられた読者も多かった。それと同じようなことが、春川作品にも言えるんじゃなかろうか。
今日はどんな春川さんの絵が見られるのかな?という期待で、SM雑誌のページをめくる、愛おしい時間がかつてありました。
春川ナミオさんが泉鏡花や江戸川乱歩の作品に挿絵を描いていたら、どうなっていただろうと想像するのも楽しい。
ところで、この「ダメ男M日記 」というタイトルを、しばらく僕は「ダメ
M男日記」だと勘違いしていました。
おそらく、この当時はまだ「M男」という用語が世間的には登場していなかったか、していてもそれほど使用されてなかったような気もします。
「マゾ男」という表現は、また独特の響きがこもっていて、「M男」という言い方の方がまだ人口に膾炙している印象です。ただ「エムお」なのか「エムおとこ」なのかが、また微妙です。
バーやスナックだと、エムダンセイとかエム紳士なんていう、気をつかった表現も時々耳にします。
「うちのお店には、あまりエムダン、来ないんですよ」っていうホステスさんもいました。
いろいろな呼び名がありますけど、「マゾヒスト」というフルネームだと、沼正三とか龍パイセンのように、それなりに気合いの入った人だけの呼び名という感じであります。
ちなみに女性にはあまり「マゾヒスト」って使われないみたいですが、ここにもジェンダー意識が関係しているのでしょうか・・・
昔は「男はサドが基本」で、女性は初期設定でマゾなので、あえて言わない男尊女卑的な因習の名残りかな?
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