本当の自分って、何だろう?
仕事をしている時の自分?
家族と一緒にいる時の私?
独りでいる時の孤独な己自身?
それとも、SMクラブの女王様の前で平伏している変態な俺?
人間にはいろいろな面があるとして、いったいどれが本当に一番自分らしいのかを考える時、迷ってしまう。
一時的に今だけ、お馬鹿なことやってるけど、こんなの本当の自分ではない、と思っている。
しかし、それは偽善だ。
最近コメントして下さる方で、「普段のわたしと、プレイ中のわたしの両方とも、自分だと思っています」というのが心に刺さりました。
少なくとも、日常の一般人としての自分は、SMをやってる時の自分とは別だと思っていましたが、そんなワケないですよね、よく考えてみれば。いや別によく考えてみなくても。
それでも、やはり、全く同じではない、と思いたい・・・
どのような自分であれ、これが本当の自分だ!と誇らしげにカミングアウトするのは、難しい。
それが公的に誇れるようなことでも、恥ずかしいものがある。
複雑で多様な現代に生きる私たちの人格は、一人ではなく、複数の「分人」であるという概念も登場しているようです。だとすれば、本当の自分に一番近いのは、誰になるのであろうか?
本当の自分も、嘘の自分も、自分は自分。
客観的に、「他者」としての自分を見つめるために、恥ずかしい自分の自撮り写真を眺めたりするようになりました。
昔は目もあてられず、自分を軽蔑してしまったり、落ち込んだりもしたのですが、還暦を過ぎてからは、少し冷静に見つめることができるようになりました。
しかも、こうしてブログで皆さんと共有することも、出来たりして、自分でも意外でした。
他者と、世界中の皆さんと、共有させて頂くことにより、己のアイディンティティーを再認識することになるのではなかろうかとも思いました。
恥ずかしい痴態を晒すことにあまり抵抗感がなくなってきたのには、マゾヒストとしての自分が、そのおかしなオカシナ性癖を満たすためのカタルシスなのではなかろうかとは思います。
そんな自分勝手な自己主張も、皆さんにとってはいいご迷惑でしょう。
本当に申し訳ありません。
正直なところ、これが本当の自分だ!と自己主張する気にもなれないのです。
ただ、それを承知で、お見苦しい画像をこれまでにも紹介してきましたが、こうすることで、自分の魂を解放し、本当の自分自身を見つけることが、もしかしたらできるのかもしれない・・・ とも感じております。
悪趣味な写真を公開するんじゃネ〜よという声も聞こえてきそうですが、それでも見たいとおっしゃって頂ける奇特な読者もわずかながらいらっしゃることもあり、これからもご紹介してみたいとは、考えております。(考えているだけですが・・・)
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見られるという事は、自分の恥ずかしい姿を曝して喜ぶというマゾ独特の快感。
ただ、私の場合、曝した姿を褒めて欲しいし共感して欲しい。男女問わず。
「キモい」「バカじゃない」と切り捨てられたら曝した甲斐がないってもの。
「凄い変態ですね」「私もやってみたい」と褒められたら、もっと頑張ろうって思えるし、同志がいる安心感もあります。
LGBTは社会が受け入れつつありますが、マゾ男は受け入れてもらえないでしょう。マゾ男は基本的に孤独です。そんな存在の人間が一時的とはいえ、必要とされる。マゾとしての存在意義を見つけ出せたら幸せであり、その時間が本当の自分を出せる場なんじゃないかな?なんて思います。
コメンテーターのKさん、なかなかのドマゾのようですね。嬉しいです(笑)気が合いそうです。