
赤いハイヒールはもちろん大好きですが、色よりもやはり、こういうシチュエーションが、まず先に来ます。
mugi さんの最近のエントリー「
赤いハイヒールの眩惑」の冒頭の描写で、真っ先に思い浮かんだイメージが実はこれなのでした。
男は
「太腿をハイヒールの踵でグリグリと抉られ」、痛みで顔を歪めながら女王様にお慈悲を請う。
男の顔は目の前に見える太もも越しに、女王様の神々しい顔を見上げている。
そして、女王様はきっと、次のような台詞を言うんだと勝手の妄想する。
「あら、なあに、物欲しそうな顔して。 もっと強く踏んで欲しいの?」 女王様は見下しながら、さらに体重をかけて踏みつける。
ち、違います。痛すぎるので、もっと軽くにしてくらひゃい・・・ と、声には出さず、心の中でつぶやく・・・
などと、モーソー。
こういうのは、マゾヒストの十八番というか、春川ナミオのイラストを見ても、似たようなコト考えてしまう。
そこに描かれている描写や物語の主題、作者の意図などお構いなしに、自分勝手に自己の願望を重ね合わせて陶酔する。絵画や音楽、他の芸術作品にも、多かれ少なかれ、鑑賞者の自由なインスピレーションで、イマジネーションは無限の宇宙を彷徨うのです。
そんなこと、みんなやってるよ。
マゾだけでなく、サドもヴァニラも、大人もコドモたちも、人間の感性には、多様性の中にも、共通の普遍性がある。
そうでありながらも、世界には格差と対立があふれている。
このシチュでは、ハイヒールの色は赤でなければならない、とプーティンは言う。
ウクライナは、従来どおり黒で突っ張る。
そこんとこは、白でオナシャスと、国連とアメリカが仲介してくる。
ここで紛争を避けるには、柔軟な思考と嗜好で、色にはこだわらずに、痛みのあるなし、その後の展望や持続可能性を視野に入れたプレイ、でなくて、施策の創出であろうか・・・
紛争や対立が避けられないにしても、両者は合意の上で傷は最小限にとどめるような知恵を、世界はSMから学んで欲しい。
などと、モ〜ソー・・・
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