
全ての職業女王様がそうだとは言わないが、ほとんどの女王様はM客のリクエストに応えようと努力していると信じたい。満足感を与えない逆向きのサディズムは、SMクラブではありえないだろう。
それなのに、満足できないお客さんは常にいるようだ。
よく言われるように同じマゾヒストでも十人十色。みんな異なるマゾヒズムを抱いている。あえて単純に言うと、鞭で打たれるのを好むハード嗜好のMと、顔面騎乗が好きなフェチMとでは、マゾヒズムの質が違う。全く別ものだと言ってもいい。だからといって、この両者に接点がないかといえば、そんなことはない。両方とも好きで、鞭で打たれながら顔面騎乗されたいと思う人もいる。
あるいは、今日は鞭で打たれたいけど、明日は打たれたくないのかもしれない。
または、両方とも好きだが、同時にされるのは好まれないケースもあるだろう。
もしかすると、鞭で打たれたい女王様と、顔面騎乗されたい女王様は別なのかもしれない。実に意味不明なバリエーションが無数に存在する。苦痛と快楽は複雑に絡み合っている。

SMクラブの女王様というのは、少なくともそのように複雑なマゾヒズムを理解する人でなければならない。例え理解できなくても、理解しようとするポジティヴな態度を持つべき。最悪の場合、わかったふりというか、演技力が求められる。そういう意味では、SMクラブの女王様もたいへんだ。まったく意味不明な世界を受け入れ、しかもその相手を満足させなければならないのだから。たとえ理解できたからといって、いいセッションになるかどうかの保証はない。相性の問題も含めて常に不確かでリスキーな状況の連続。並の神経ではやっていけないだろう。マゾヒズムを理解するというよりも、千差万別な相手の嗜好を理解しなければならない。
セッションがうまくいかない原因には、客側にもその責任はある。恥ずかしい依頼内容を明確に伝えることが出来なかったりする。経験豊富でわかっている女王様であれば、言われなくてもお客さんの願望を読み取り、適確なセッションをある程度組み立てることが出来ようが、よしんば客側が上手く言えたとして、そのメッセージが正確に女王様に伝わっているかどうかが問題だ。受け手側が間違った解釈をしてしまう場合だってある。女王様の個性や能力も、これまた千差万別なのだ。
結果的にセッションが上手くいかなかった場合、女王様は一生懸命にやっていたにもかかわらず、客側としては「あの女王様はわかってない」ということになってしまう。何か不満があれば全て女王様のせいになる。本当にそうなのだろうか?
僕が最近思うのは、SMプレイとかセッションというものは、クラブだろうがプライベートだろうが、コラボレーションであるということ。きちんとした信頼関係もないのに、イキナリ充実した共同作業を実現するのは難しいし、極端な話それは無理だと言っても過言ではあるまい。特に経験の浅い若い女王様との初セッションでは、半分ぐらいは様子見程度にして、気持ちのゆとりが客側にも必要だと思う。
「お安くない料金を払っているのに、それではすまされんだろう」という人もいるかもしれないが、料金分の満足感を得るための努力を客側も怠ってはならない。金銭の授受によるサービスの供与という一般的な概念は、通用しない特殊な世界だと(僕は)思っている。各女王様の能力的格差はあるだろう。しかし少なくともマゾヒズムに好意的な理解を示そうとはしているはずで、何も知らないノン気の女性とは最初から格段の差が開いているのだ。こちらからのアプローチ次第で、満足度の高いセッションへ持っていくことができる。
人は誰も「自分だけが特殊」だと思いがちだ。もしそれが本当なら、人は皆特殊な存在なのである。人間一人ひとりが特殊な存在だという認識に至れば、言い換えれば「自分だけが特殊ではない」というやさしい気持ちになれると思う。今回お世話になる初対面の女王様に、お互いがかけがえのない「特殊」な存在として向き合うことが出来れば、もう少しリラックスしたプレイが可能なのではないだろうか。
よいセッションとは、優秀な女王様が一人で作るものではなく、特殊な二人が(あるいは複数でも)協力しあって初めて実現するように思う。理解してもらいたいのはお互い様であり、相手のことも理解しようとする努力と敬意を忘れてはならない。このことは何もSMのセッションだけの話ではなく、ごく基本的なコミュニケーションのお話なのでした。
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