
そんなのどっちもたいして変わらんべや、というツッコミも予想されるが、もちろん個人差もあるし、一概に言えないのを承知の上で、ここではサディストとマゾヒストではなく、作家のマルキ=ド・サドとザッヘル・マゾッホの作品比較で考えてみたい。資料としてはサドの「悪徳の栄え」とマゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」をテキストにしてみる。
この二つを読み比べた経験のある人は少ないのではないだろうか。どちらか一冊だけ、あるいはどちらか一方の作家が好きというパターンが多いと思う。かく言う僕だって、サドの作品はごく最近になってから読んだばかりなので偉そうなことは言えないのだが、SとかMとかの立場の違いを差し引いても、マゾッホとはあまりにも違いすぎるサドの作風に僕はおおいに驚いた。
そして、どちらの作品がより変態っぽいかという問いに対する僕の結論は、明らかにサドの方に軍配が上がる。
小説の中で使われる語彙だけで比較しても、「悪徳の栄え」には70年代のサド裁判でも問題となったワイセツ表現が激しい内容であるのに対して、「毛皮を着たヴィーナス」ではこれといった卑猥な表現は出てこない。
だからイヤラシくないのか? というと・・・
う~ん、そうとも言えないのだが(これは読む人の感性にもよると思う)
変態的ボキャブラリーとしてピックアップできる単語の数は「悪徳の栄え」の方が断然多い。「千鳥」や「裁尾する」といった、澁澤の気の利いた和訳でモザイクはかかっていても、登場人物達が繰り広げる凄まじい性愛行為はハンパではない。アナルセックス、同性愛からスカトロ、ネクロフィル(死体愛好)、超変態的で残酷な拷問の数々。これにはドSでも真っ青になるくらい、ウンザリするはずだ。
対する我らが「毛皮」の方には、せいぜい鞭とか靴などのフェティッシュなアイテムが並ぶ程度なのである。それは変態というよりは官能、ワイセツというよりはエロス。作品世界だけで比較するなら、「悪徳」は明らかに常規を逸しており、「毛皮」はノーマルとは言わないにしても、「悪徳」よりは控えめでソフトな印象となる。
これだけの理由でサドの方が変態だとは言えないし、そんなつもりは全くない。むしろ、精神的にはマゾの方がよっぽど屈折しているのではないかとさえ思う。
ただ、個人的に作品を読む立場からすれば、僕は「毛皮」の方が好きで、マゾッホの作品世界に魅了されているので、冷静に客観的な判断は難しい。
ここはやはりSでもMでもなく、性的な倒錯願望を持たないノーマルな人が、これら2つの作品を読み比べてみて、いったいどちらに「異常」を感じるかの判断を下して頂きたい。
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■ サドとマゾッホの会話
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