2001年の7月30日に椋陽児が亡くなった。(7月31日という表記も)
この人は名前の読み方も馴染みがなく、他界したことを知らなかった人も多いと思う。それでも、名前に聞き覚えがなくとも、この人の書いたイラストを見れば
「あ、あの人か」と思い当たるのではないだろうか。

椋陽児のSM媒体への登場頻度は春川ナミオにも匹敵するほど高く、70年代のSM雑誌を開くと必ずといっていいほどに彼の作品を見ることができる。そのテーマは少女の被虐美で、いたいけな10代の女の子が縛られ、羞恥の表情を浮かべる姿には、団鬼六の世界とはまた異なるエロスが巧みに描かれていた。おそらくは団鬼六もが見たかった「情趣」がそこにあったと思われる。

僕はM男の分際で、椋陽児の絵が好きだった。S男性は当然注目していたとは思うが、ノーマルな男が見ても潜在する己の狂気をほじくりかえすようなそのスタイルは素晴らしく、肌の質感や周辺のディテール、そして生々しいリアリティには、フェティシズムを超えた豊かな技量と才能があった。彼の描く少女にはどこか共通の面影が感じられ、その魅力にも惹き込まれていた。

椋陽児が亡くなってからしばらくして、濡木痴夢男が「S&Mスナイパー」(2002年9月号)で、「話すことも供養になるのかも」と、椋陽児の秘められたエピソードを語っている。それによると、これらの少女モデルは妻の夢子夫人だとされている。

しかしその奥さんがマゾだったのかというと、そういうわけではなく、旦那の芸術のために脱いだ?みたいな感覚の延長線上で、(不本意ながら)縛られて絵のモデルになっていたらしい。しかも夫を雑誌デビューさせるために、当時「裏窓」の編集長をしていた濡木のところに緊縛グラビアのモデルとして現れて、その時に自分の夫を売り込む。実はそれをさせたのは夫の椋で、自分の奥さんをSM雑誌の編集部に「派遣」し、縛らせるついでに、自分の作品(当時は小説)を売り込ませるという戦略。夫婦合意での第三者を交えてのSMプレイを企画したウラ技はなかなか凄いものがある。
M女であれば喜んでそれが出来そうにも思うが、濡木によればそうでないらしい。夢子夫人を(椋陽児の妻とは知らずに)縛って写真を撮った彼が言うには、「そのケがあるやつはね、ちょっと喋るだけもわかるんだ。すぐにね。夢子は違いますよ。もし夢子がマニアだったら、俺は十年たとうが、二十年たとうが彼女が婆さんになろうが会いに行くんだけども、まったくノーマルだからね」

これを読んで僕はあることに納得した。

椋陽児の緊縛画に描かれる少女たちは、常に純真無垢である。責められて喜ぶようなM女はけして登場してこない。嫌がっているその表情がやけにリアルで、そこが本来M男にはあるはずのないサディズムを刺激していたように思う。そして椋陽児の本物のサディズムが、無垢な夢子夫人をモデルにすることで開花したのではないか。これで夢子夫人が「アヘアヘ」いって喜んでいたら椋も萎えてしまって、いい作品は描けなかったのではないだろうか。
いやらしいおっちゃんが一緒に描かれることが多かった。 S女でない奥さんを女王様にしているM男もいれば、マゾでない奥さんを縛って絵を描く真性S男がいてもいい。ヘンタイ、倒錯、SMなんて、言ってみればなんでもアリの世界。愛し合う二人、いやもしかして愛し合っていなくても、夫婦間の性愛は第三者にはわからない。よろしくやってくれというしかない。

同じ事は、SMプレイをやる男女の関係にも言えて、結局「世界は二人のためだけ」にあるということになるのだろう。
コミック(劇画)作品や小説の挿絵、表紙カバーなども手がけていた。椋陽児プロフィール
1928年(昭和3年)大阪生まれ
1960年代「裏窓」への投稿がきっかけとなり同編集部へ就職する。
落合龍二のペンネームで絵を、豊中夢夫の名前で小説を書いていた。その後「漫画天国」(芸文社)、「劇画快楽号」(サン出版)などで劇画を発表。70年代以降多くのSM雑誌で売れっ子となり、80年代には劇画単行本も出版された。90年代から「SM秘小説」「SMマニア」などに挿絵やカットを発表していた。
画集に「縄」(まんだらけ刊)などがある。
2001年7月30日永眠。享年73歳。
ホントにいやらし~いおっちゃんがよく登場するんだコレが。

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椋陽児(2009年4月27日)ギャラリー
椋 陽児の世界展
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