
春川ナミオの描く世界を、他者と共有するのは難しいのかもしれない。ルノワールの絵のように誰かと一緒に観賞するのは気が引けるし、こっそり自室で見るのだってウシロメタイものがある。
いつでもどこでも、誰とでも談笑できるタイプの絵ではない。一般的な目線からは「おぞましい」とかいう形容詞があてはまるのだろうか。

しかしよく見ると、茶目っ気とでもいうのか、そのような罪悪感から解放してくれる粋な仕掛けも用意されている。
名コピーライターとしての春川ナミオ その一つが作品に登場するテクスト(文字まわり)だ。タイトルは雑誌の編集者によって勝手につけられることもあるらしいが、絵の中にレイアウトされているキャプションは春川自身によるものである。
ここで紹介している「人間便器フェアー」というシリーズは、いかにも伊勢丹とか
幕張メッセで行われそうなイベントとして違和感がない。
「人間便器」という言葉はおぞましいが、それに「フェア」がつけたされることによって、人間便器という表現が本来持つ概念体系が脱構築されていく。

「試便コーナー」「My便器」などというエクリチュールは、現実の世界ではお目にかかれることはあるまいが、不思議な説得力がある。内容の創造性と相まって特異な知覚意識を生み出すのである。
あなたの排泄物を栄養源として生きる便器に優越感と究極の愛を感じとって下さい このようなコピーに春川のメッセージがユーモラスに表現されている。「家畜人ヤプー」ほどの深刻な諧謔性があまり感じられないところも親しみやすい。スカトロとはまた意味が異なるが、好きな女性が「マイ便器」として自分を扱ってくれることをつい願ってしまいそうだ。普通なら絶対に思うはずもない「人間便器願望」が自然と沸き上がる。
ある意味では危険な作品だ。その禁断の魅力に抗うことは非常に困難である。

異性の糞尿を崇慕する精神性は我が国においてそれほど珍しいものではない。古くは「今昔物語」や「十訓抄」などで、近代文学でも芥川龍之介が「好色」で高貴な女性の便器の中のものを舐めたりする描写を中世文学から換骨奪胎している。それらは特定の、とりわけ貴族社会や上流階級にのみ伝わるシニフィアンであったのだが、春川は戦後の高度経済成長期において、一般大衆にもわかりやすく脱構築して見せたのであった。
春川作品がその種のマニアにだけでなく、広くノーマルな人々にも共感を与えてきたのはそのためだろう。
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憧れの巨匠とついにご対面!

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私は集団糞尿便器プレイには憧れはありますが、実は糞尿を崇拝する愛好家ではありません。
ヤプーズビデオの様に拉致監禁され、便器に拘束され強制的に喰わされる無理矢理感がないとダメなのです。
理性をも棄てされるシチュエーションじゃないと私が以前クラブで結構した集団聖水黄金プレイの様に、たった二人目で情けなくギブアップしてしまいます(苦笑)
私があそこで望んでいたのは、三人目の一番タイプだった女王様の黄金を飲み込めず吐き出した時も、笑って許すのでは無く元々プレイ開始の時から完全拘束されていた私を、激しく怒り鞭打たれ開口器など装着され、更に無理矢理喰わされたかったです。
逆にどんなに私のタイプで精神的にも崇拝出来る様な女性の黄金であっても、拘束&無理矢理感がないと理性が勝ち食べられる気がしません(現にそうでした)
実はあの春川ナミオ作品の便器の画に憧れたのも、作品をよく見ると便座や便器にロープや鎖で拘束されている無理矢理感と、便器フェアーなどの男側からは黄金を喰わされる女性を絶対選べない、公衆便所的な要素が必ず表現されていたからです。
私が最初に見て今でも脳裏に残っている春川ナミオの便器作品は、一人の男子生徒が学校の女子トイレの和式便座の中に頭を仰向けに入れられ、両手足を麻縄で水道パイプに拘束され、そこにスケバン風の女生徒が腰を下ろし、黄金を喰わしていてそれをドアの隙間から、他のあたかも順番待ちしている様な女生徒数人が意地悪い表情で眺めている画でした。
もし最初に見た春川ナミオ氏の画が、一人の崇拝する女王(女主人)の黄金を、何の拘束もなく有り難く頂いている様な作品だったとしたら、その時点では私も人間便器には嵌まらなかったと思います。
私は鞭にしても顔面騎乗にしても人間便器にしても、ロープ(拘束)一つあるとないとでは全く違う、もしかしたら反抗マゾなのかも知れませんね(笑)
またまた長コメントすみませんでした。