人間が全て平等というのは幻想に過ぎない。生まれた時から、環境や親の性質、体力から経済力に至るまで「格差」だらけである。本人の努力次第で勝ち組に残れるチャンスがあるかもしれないというだけで、本質的には古代ローマの奴隷制社会と変わらないのだ。
「平等であるべきだ」という固定観念が、本来自然な格差社会に対してストレスを生む。
それなのに、力ずくで不平等を是正しようとするから亀裂が生じる。本来の姿、支配するかされるかという、そのどちらかの立場に甘んじれば、無理に苦しむことはない。そのように割り切って考えると、もっと平和で幸福に生きられるのではないだろうか。
サタミシュウ の作品では、官能的なエロスというよりも、男女の人間関係におけるダイナミックな構図をモチーフとした、より刺激的で斬新な世界が描かれる。
そこには「主従関係」至上主義ともいうべき思想がある。
現代社会においては、組織でも男女間のプライベートな世界であっても、主従関係こそが合理的でスムーズに機能する要素だというのがサタミシュウの主張だ。これは本来的には古代社会から脈々と続く普遍的な真理なのかもしれない。
原始時代から社会の最小構成単位であった家族において、子は親に従うというミニマムな主従関係から出発していた。その親も老いては子に従う。
マゾッホが
「毛皮を着たヴィーナス」の中で
ゲーテの有名な一節を引用している。
「汝はすべからく、叩かれる鉄床となるか、それとも叩く鉄槌となるか」 人間関係に平等はありえない。特に男女関係は、愛こそが不平等や理不尽の源泉であることを、私たちは認めたがらない。あるいは気づかない。
金槌となるか、鉄床となるか、そのどちらかになるしかない。
何もそこまで極端に考えなくても、「金槌=能動的」、「鉄床=受動的」 と置き換えてもいいかもしれない。好きでもない格差社会で這い上がるだけが勝ち(価値)ではないはず。
あるSMクラブの
女王様のブログを読んでいて、自分に素直に生きるということが、はたして能動的なのか受動的なのかが一瞬分からなくなってしまった。
「毛皮を着たヴィーナス」の主人公はこれを「奴隷となるか、暴君となるか」と解釈する。
鞭で打たれるのか、鞭で打つ立場になるのか。
サタミの考え方は、要するにここに通じるものがあるように思う。
そしてもう一つ重要なポイントが、この主従関係は不変ではなく入れ替わるということ。あらゆる局面において「主」というのは存在しない。
SMクラブの女王様が彼氏に対してはM女であったり、ある特定のM女を調教しているS男性が、実は家庭で恐妻家だったりということは、現実にはよくある。
24時間365日始終ぶっつづけで主人だったり奴隷だったりするのは不可能だ。
状況や場面ごとに、ケースバイケースでM転やS転していくなめらかな生き方も尊いと思う。しかし、属性がシフトはしても、ロールプレイでの役割は厳密で曖昧にはせずに。
SMのパートナー同士でたまにリバーシブルプレイを行う場合にも当てはまるだろう。
その時どきの役割をきっちりと演じて責任を果たすことが大切である。
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