昨年出版された、SM文学の巨匠が書いた純文学。
僕は別に
団鬼六ファンというほどではないが、数年前にたまたま会ったこともあり、折にふれ昔の奇譚クラブに掲載されていた作品を読み返していた。
戦争の記憶が薄れていく中、こういう本を読もうとするモチベーションも下がりつつある。
僕にはもちろん戦争の記憶はないけど、祖父母や叔父さんなど直接の体験者から語り継がれた話は覚えている。
特攻の話もよく耳にした。
団鬼六氏も終戦時は中学生だったから実戦の経験はなくとも、やはり生々しい声を聞いているはずだ。
今の若い人は伝聞系ですら聞くことも出来なくなった内容が、力強く語り継がれる文章には胸を打たる。
「花と蛇」の団鬼六という話題性からでもよいので、戦争を知らない世代はぜひ読まれるとよろしいのではないかと思う。
従来、戦争と男女の性的な関係を扱うモチーフはタブー視されていた。
戦時は男女がいちゃつくなんてことはもってのほかで、戦後もしばらくは、フィクションの世界でさえも戦争と性愛を関連づけた作品は登場することができなかった。
「奇譚クラブ」のような、アンダーグランドな媒体でのみその種のテーマが描かれていたが、それでも戦死者へのわだかまりようなプレッシャーはあったのだと思われる。
終戦は、いや敗戦の記憶は多くの日本人にマゾヒズムという思想を植えつけたにも関わらず、なかなかそれが表に現れてこなかったのも、一種の罪悪感にも似た感情が作用していたのかもしれない。
奇譚クラブをSM雑誌に変革した編集者も、「家畜人ヤプー」の沼正三も太平洋戦争の帰還兵だった。
終戦後、東南アジアのある村で、日の丸の旗をパンティにして現地の女性が履いているというエピソードなどは、天皇制にピンとこない世代にはSM的にどうして昂るのか理解できまい。
僕も最初は意味不明だったが、戦争とSMの強い関連性を知ることで、なんとなくマゾヒズムの複雑な倒錯性や難しさを、少しはわかったような気がしてくる。
戦争の記憶は、出来ることならなかったことにしたい。
平和な今の時代には多くの人がそう願う。
いや、戦争があったことなど知らないよ、とでも言い出しかねないほど、忘れ去られているように見える。
SMをより深く理解するために、この負の遺産は永遠に語り継がれていくべきであろう。
そういう意味でも、団鬼六は素晴しい仕事をしていると思う。
絵日記による学童疎開
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