
ナルシズムは、その人物が誰からみても美しく、自分でもうっとりしてしまうぐらいであれば納得がいく。
誰かに誇りたくなるほどの美しさであれば、自分だって好きになれるだろう。
これが理想的で正当なナルシズムだと思われる。
しかしマゾヒストのナルシズムは、それとはベクトルが全く異なる。
縛られたりして惨めな、恥ずかしい自分を見つめることで悶えるのだから。
できることなら、見たくない、醜い姿。
そのような負の自己陶酔がMのナルシズムであって、健全な(?)ナルシズムとはちょっと違う。
ただし、方向が逆向きというだけであり、その本質に変りはないのかもしれない。
苦痛を快楽に転化する錬金術よろしく、恥ずかしい己の姿を再認識することにより、羞恥が恍惚となり、己の満悦した姿を他の誰かにも誇らしげに見せたいのだ。
ここで「鏡」というアイテムに注目したい。

その自己認識には鏡という道具が重要な役割を果たす。
昔のSMクラブなどでは、そこがどんなに狭くてみすぼらしいスタジオやマンションの一室であろうとも、必ず「鏡」があった。
マゾヒズムのナルシズム的願望を満たすためにこれは必要不可欠だからである。
陶酔するための己の姿(それが美しくても醜くとも)を切り取り、それまでは妄想的なイメージでしかなかった虚像を、リアルタイムで実像として「確認」できるツールなのである。
この点に関しては、澁澤龍彦がサドとマゾッホの比較文学論の中で巧みに指摘している。
見ることと見られることの複雑な関係を、演劇的に演出するということになると、サディストよりもマゾヒストの領分に近づくのではないだろうか。(「サド公爵、あるいは城と牢獄」ーマゾッホとサドー) 澁澤はこう述べた後で「毛皮を着たヴィーナス」のあるワン・シーンをひきあいに、マゾヒズム小説に鏡は不可欠であると主張する。
「毛皮を着たヴィーナス」では、ワンダとグレゴール(主人公ゼヴェーリンの奴隷名)が奴隷契約書を交わした後半部に次のような場面がある。グレゴールが浴槽でワンダに奉仕した後、この二人のツーショットがそこにあり、それが部屋の向こう側にある鏡に映し出されている。これをグレゴールが目撃して衝撃を受けるのだ。澁澤は同書でこの部分をそのまま引用し自説を展開するのだが、ここは僕も大好きなシーンなので、ここでもそのまま引用してみよう。
「たまたま私の視線がすべって向いの壁際のどっしりとした鏡の上に落ちた。すると思わず、あっと叫び声を上げた。というのもその金箔の額縁の中には、絵の中の人物のように私たちの姿が映っているのが見えたからである。そのイメージは息を呑むほど美しく、たいそう奇妙で、大そう幻想的だった。それかあらぬか、その線も色彩も霧のように溶けうせてしまうのだと考えると、私は深い悲哀の念にとらわれたのである。
「どうしたの?」とワンダが訊ねた。
私は鏡を指さしてみせた。
「あら!本当にきれいだこと」と彼女は嘆声を上げて、
「残念ね、この瞬間は絵には残しておけないのね」 物語の後半では、ワンダはこの瞬間をドイツ人画家により描かせようとする。
ナルシストが自分の姿に見とれるための鏡の中には、「霧のように溶けうせてしまう」つかの間のイメージが映っているだけである。長くは続かない。見るのをやめてしまえばそれまでなのだ。
見続ける限りにおいて、永遠の美を自分のものにすることが可能となる。
澁澤は鏡についてこうも述べている。
「動作を中途でやめ、クライマックスを先へ先へと延ばすための装置」である、と。
一度やってみるとわかるが、鏡を見ながらというのは、なかなかうまくプレイができない。
鏡の中で止めておきたい物語は一瞬にして過ぎ去ってしまう。
このジレンマを解決してくれるツールに、ビデオカメラがある。

録画しておいて、あとからその物語を第三者のごとく鑑賞する。
昔のセビアンや美芸会の映像には、そのような意味合いもあったのであろうか。
置きっぱなしの、撮りっぱなしの、演出不在のおどろおどろしい記録は、出演者本人のナルシズムだけが満たされる。
昔の、クラブ所有のプレイルームになくて、今のラブホにはたいてい備え付けられているものに、大型のモニターないし、液晶プロジェクターがある。
ちょっと気の効いた演出として、カメラの出力端子からケーブルをこのモニターに繋いでやれば、録画内容を現場でモニターできる。いわゆる生中継だ。
グレゴールが惜しんでいた「霧のように溶けうせる」イメージを、永遠に記録しながら、鏡とは別の、自分のお気に入りのアングルで楽しむことが可能になったのである。
こうなると、クライマックスを先延ばしするのでなく、次から次へと新しいクライマックスを予期させてくれるような気がしてくる。
可能であれば、誰かに撮影してもらいたい(女性に)
なぜか、たまたまアナル掘られているイメージになっちゃったけど、僕が好きなわけではありませんので(>_<)
クンニしているところは、別に恥ずかしくもなんともないよな~(^^)

ああぁぁ~、ぜんぜん恥ずかしくないー もっと撮影してええ~ (´Д`;)ハアハア

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ある女装クラブに初めて行ったとき、一つの壁が鏡張りなのを見て不思議に思いました。考えてみれば不思議に思う方が不思議です。そう考えたとき「ああ俺はナルシストなんだな」と思いました。
女装する自分はもうそれだけで十分で、自分を客観的に捉えなくても満足できるからです。もっと言えば女装などしなくても、何か女性物を一点身につけるだけで自分の中にある理想化された「女性イメージ」が実感できます。それを支えるのが世間の目、自分の中にある「鏡」です。勘違いであっても。ですから実際の鏡に映った自分は自分であって自分ではありません。
でもこういった感覚はどんどん薄れていってきています。そうなると本当の鏡が必要になってきます。
マゾヒストに幽体離脱みたいなことを経るプロセスが重要なのはすごくよく分かります。それは鏡で自らの女装姿を見ることと本質的にかわらないと思いますが、契機となるものが違うというか、マゾヒズムの方が回路が複雑なので、刺激と感覚を何らかの「映像」(視覚化するということ、あるいは客体化すること)でつなぎ合わせないと成り立ちにくいのかなというような気がします。
ところがHomerさんのリンクを見ると、そうでもなさそうなタイプもあるようです。そちらはマゾヒズムと言うよりもフェティシズムに近いのかもしれません。