ブログでの問題発言は僕もよくやっているので、とやかく言う筋合いではないのですが、やはり市長さんともなると、ヤバかったでしょう。
阿久根市長、ブログで物議…障害者家族ら反発 たまたま、東京・六本木で開催中の
「医学と芸術展」を観に行こうかとブラウジングしている時に飛びこんできたニュースだったので、面食らいました。

確かに医学の進歩で人類の寿命は延びたのだろうし、その恩恵と同時に想定外の問題も新たに出現してきた。脳死や臓器移植など、生きる尊厳とは何かをあらためて深く考えさせられる問題発言だったと思う。
それにしても「高度医療が障害者を
生き残らせている」とは酷い。
せめて
「生き延びている」ぐらいにして欲しかった。この人は安楽死擁護派なのかな。
表現はともかくとして、この種のことを公人がブログで書くとは信じがたい。政治家の問題発言というより、人としてどうかしている言動だった。
子どもの頃、家の近所に障害者の施設があり、よく一緒に遊んだ。知的・身体障害者の多くは、個性が強烈すぎで、おつきあいするのにエネルギーがいる。彼らの純粋な性格や行動、才能に触れるだけで、健康な人間がいかに汚れているかを、特に自分の嫌らしさや偽善を痛感してしまうのが辛かった覚えがある。
おまけに変態だし。
医療と芸術の接点は、これまであまり意識してこなかった。
よく考えれば、より人間らしく美しく生きるためにどちらも大切だし、医者というのはある意味では生命の芸術家とも言えるのだろう。
しかし、
「人間らしく」と
「自分らしく」とは、意味が違う。
例えば、性同一障害者が性転換手術を行ったりするのは、そんな技術や医療行為が発想も含めて不可能だった過去の時点においては人間らしい行動とはみられなかっただろう。
自分らしく生きることが、本来の人間らしくないということはある。 ほとんどの常識ある人たちは、自分らしくない自分を社会的に演じて、「人間らしく」生きている。
僕には常識に欠けているところがあります。
だからせめて、自分らしく生きたいと願っているのですが、知らず知らずのうちに、人間らしく生きようとしてしまっているような気がします。
アブノーマル行為や身体改造なども、健康であるからこそ享受できる快楽だということを忘れずに、安全かつ衛生に、みんなが気持ちよくなれるよう自己責任で行いたいものです。

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特に心の健康が損なわれてしまっていたら、アブノーマルな行為は危険な方向へと走ってしまうかもしれませんしね。
とはいえノーマルとアブノーマルの境が不鮮明になってきているのもまた事実です。そこら辺は自己責任で対応するしかないのでしょうけど、時代の進み方が早くて私は付いていけるか心配です。
拍手のコメントもありがとうございました。どう返事をしていいのかわからなかったので、こちらにお礼を書かせていただきますね。