
今回の
芥川賞は該当作なしだそうです。
定期購読しているブログの
L'EROTISME で、先日、
鞭打ちのシーンが描かれていました。
鏡の前で自分が打たれる姿を直視させるこのやりかたは、SMクラブなどではよく見られる手法ですが、プロではない Cecilie さんによって書かれているところに価値がある。
(僕は鞭のスキルよりも、このような演出に感じてしまうのかもしれない)
一人称で書かれているのでパートナーとのセッション・ログのようでもあり、優れた官能小説のようにも読める独特の文体は、SMの芥川賞をさしあげたい。
僕はプロ女王様のブログもよく読みますが、営業用という面もあるのかどうにも馴染めない。
ブログを書くこと自体が目的となっていて「それを書きたい」という熱意がエントリーに感じられない。そういうブログは一般のブログにも多い。
似たようなことを芥川賞の選考委員である池澤夏樹さんが、今年の該当作がない理由としておっしゃっておられました。これだけブログが流行っているからには、小説を書きたいだけの人口も増えているのだろう。
僕は逆に「書きたいこともないのに書けちゃうのが才能」という気がしていたので、なるほどなとも思う。特に情熱もなく意味のないことが書かれ、それらを読む人もたくさんいる時代。
カテゴリーの異なるブログをたまに見ると(「読む」というほどのボリュームがない)、こんなの読む人がいるのが信じられない!というほど意味不明だが、僕のブログだって、ノンケの人が読んだら同じこと思うのだろう。
特定のアンテナを持つマイノリティー同士の奇跡的な出会いを結びつけるのがインターネットのマジックだ。
他の人にはチラシの裏でも、僕にとってはお宝本となる。
ブログは商業ベースのコンテンツや出版物と違い、必ずしも不特定多数をターゲットにしているわけではない。
特定少数の
「わかる人だけが読んで下さい」というスタンスに応じることのできる読者は限られている。
何かの受賞作だから「読んでみるか」というモチベーションを否定はしないけれど、僕は「読むこと自体が目的」の読者ではない。
本当に読みたい何かを模索している。
だからマイナーな受賞作も含めてやみくもに読むこともあり、失望の回数も多い。
Cecilie さんのブログでは、自己の体験をベースとした関係性や行為など、表現されるもの全てへの真実の愛が感じられる。もしかしたらネット人格が造りだした虚像の世界であるにしても、そのリアリティに心を動かされる。
あたかも僕のために書かれたかのような(それが勘違いであるにしても!)、自分向きの作品にネットで出会うと、ついうれしくなってブログで紹介してしまうのですが、何か問題ありますでしょうか?
【参考記事】
◇ 直木賞の白石一文さん、初の父子受賞(読売オンライン)
◇ 直木賞に佐々木譲・白石一文の2氏(Asahi.com)

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homerさんのように、豊富な知識を持たない私は、
自身の体験や感性のみに従って書くしかないのですが、
読んで私のpassionを感じ、愉しんで頂いているということを
とても嬉しく、光栄に思います。
今後とも、よろしくお願いいたします。