
数あるSMプレイの中で、放置プレイほど意味不明なものはなかろう。
プレイと名がつくからには、何らかの動的なモーションがあってほしい。
何かを「する(される)」というほとんどアクションの介在しない放置状態のいったいどこが面白いのか。
苦痛ではない。羞恥でもない。フェチでもない。
精神的なSMといっても、見た目には相手との交流がない孤独な空間は、「一人SM」とかわらない。
「放置されている」という関係性には、厳密には管理されている状態があり、つまり「放置」されていない。
ここが曖昧であり、なかなか理解されにくい点だと思う。
フェチ動画としても、延々と鞭で打たれたり顔面騎乗される映像と比較すれば、放置されているM男をずっと見ているのもツライものがあるので、カテゴリーとしても成り立ちにくい。
舐め犬系やスカトロ、緊縛へのこだわりを綴るブログは多いが、放置プレイに関するウンチクを読ませてくれるものもあまり見かけない。
ときたま、「プレイ中に放置されて萌え~」とか言っていても、最終的にはまたかまってもらえるんだから。
放置プレイのツボは、(他のSMプレイにも言えるかもしれないが)、よりメンタルで個人的な部類に入り、誰にもわかってもらえないものなのかもしれない。
たまにSMクラブやフリーセッションのオプションなどで「放置プレイコース」なるものをみかけることがある。
お金を払ってまで鞭打たれるのがバカバカしいと言うのなら、わざわざSMクラブに来てまで
「ほったらかし」にされる とは、狂気の沙汰としか思えない。
もっとも全てのSMプレイは狂気の沙汰なのかもしれない。アブない人々のアブない行動。
それらに説明を求めること自体がナンセンスというのはわかっている。
それでも例えば「鞭で打たれたいと願うのは、素敵な女性の魅力に支配されたい気持ち」(
Whipping Mistress)であるとか、「人間便器願望はご主人様への完璧な信頼、崇拝心の現れ」(
私はあなたのトイレです)と言ってみたり、あるいは「顔面騎乗は性的な感覚を刺激すると同時に、深い癒やしを与えてくれる」(Happy Facesitting)などなど、その道のマニアならではのウンチクを語ることは許されている。
「放置フェチM男」さんの哲学を、その醍醐味を僕は聞いてみたい。
かろうじて僕なりの理解で言えることは、放置されている状態の、次に登場するであろう支配者の責めを待つ「責め待ち刻」という部分である。

歳をとってくると時間というものが愛おしくなる。
残りの人生もわずかであるわけで、なるべくなら充実した時間の過ごしかたを願わずにはいられない。
何かを待つという時間は、胸をしめつけるほど切なく感じるのだ。
恥ずかしい格好で縛られて、目隠しをされ、猿ぐつわもかまされて身動きできない状態で、いつ訪れるかわからない支配者の登場を持つ。
その時間を楽しめる感覚というのは、独特のものだと思う。
まる一日放置されていたタカシ君
↓
神崎春子「アタシの王子さま」 これを退屈な時間だと思うのか、独自の妄想力で黄金の時間とするのか。
放置プレイの魅力とはー
静なるマゾヒズムによる純度の高い精神的な興奮....
わかっていないなりにこじつけると、こうなるような気がする。
*冒頭イラストのキャプションの和訳:妻が変態行為に興味がなく、実は買物に行ってしまったと彼が気づくには数時間を要するだろう
女王様を無視する「逆放置プレイ」

これは難易度が高い?

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これは面白いですね、誰でも見えるパターンですが私は好きです。
女王が投げる変化球に「良いと言うまで正座してな!」と言うのがあります。
奴隷は急ぎ裸体に成り壁に向って正座します、己の存在を打ち消そうと勤めているように見えますが・・。
女王の意図は「空気のように静寂を保て」と命令されているのですが、奴隷の方は瞑想どころか淫らな光景を描いて没我の境地浸っています。
SMプレイの面白さ滑稽さが集約されていると思うので早くこのカードを切って欲しいと願うことすらあります。
放置プレイと言っても何も無いのではM男もつまらない、女王もそのままでは客を失いかねない。
放置と言う枕詞の付いたプレイは次に始まるプレイのお膳立てかセオリーみたいなものと思っていますが如何でしょう。