相手の目を見て話すのが苦手です。
「お願いする時は、私の目を見て言いなさい」 大学生の頃、生まれて初めてのSMプレイで、26歳のクラブ女王様がこのように命令されたのが、とても印象に残っている。

そんなこと言われても出来っこない。打ち合わせの時でさえ、まともに顔を見れずに、うつむいてしどろもどろ、やっとの思いで話していたのに。
プレイ自体は虚構の世界ではあるものの、「見られている」というその時の状況は、まぎれもない現実であり、それまで妄想の中にしか見ることの出来なかった、本物の女性からの視線にさらされているという事実が、この上ない興奮を呼び起こし、相手の目を見ることができないくらいのプレッシャーを感じていた。
この
「他者に見られている」という感覚が、言うまでもなく羞恥の本質だ。
当時の僕は二十歳代そこそこの、社会的に自立もしていない、何もわかっちゃいない若造であった。
それに元々アイ・コンタクトの苦手な、シャイな性格である。>_<
全裸で縛られたうえに、これからとても恥ずかしい、
あんなこと や、
こんなこと をさせて頂こうという時なのに、ただ単純に「見られている」というだけでなぜこうもエキサイトするのだろう。恐る恐る見上げると、まるで女神のように微笑んでいる女王様がそこにいる。ああ、これからこの女神様のような女性に、鞭で打たれ、家畜のように扱われるのか...
良識的なSMプレイは、演劇的な空間で行われる言わば
ヤラセ の世界。シナリオの代わりに、事前にお願いした依頼内容をもとに鞭で叩かれるというような動的なアクションの連続だ。しかしその狭間において、ふとした沈黙の中に現れる侮蔑とも哀れみとも知れぬ視線の中に、虚構を越えた静的なリアリティを感じる。
真性S女であろうとなかろうと、職業女王様としてはつかの間のお芝居でやっているセッションの最中で、一瞬「この人バカみたい!」とか「変態でかわいそう...」といった気持ちにウソはないだろう。その嘲りは本物だ。
「嘲笑というものは、何と眩しいものだろう」 (三島由紀夫「金閣寺」)
演技中に出現するリアルなエモーション。これこそがSMプレイの醍醐味であり、高いお金を払う価値がここにある。
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