
春川ナミオ原画展に訪れた人々は、会場となったフェティッシュバーのお客さんがほとんどであったが、そういう場所に全く足を踏み入れたことのないというお客さんも少なからずいたようである。
知床から来ましたというある初老の紳士は、「大昔の記憶で見覚えあるイラスト」というような言い方をしていたけれど、今の世の中にフェティッシュバーが存在することすら知らないような、純粋無垢な物腰であった。
いそいそと絵を見て、逃げるように立ち去ってしまう人。
「俺はSなんだけどね」という美容師さん。(し、しかし彼の背中には「奴隷」という文字のタトゥーが....)
「僕はMかも」と言ってた刺青彫り師さん。
美術史を教えているという大学の講師は、「よくこのような展覧会が実現できましたね」とシニカルに声をかけてくれたのが印象に残る。
春川ナミオの絵を観に来たからといって、その人がアブノーマルとは限らない。いったいどういう人たちなのかはわからないけれど、少なくともこの会場に来たという「ご縁」は、何か独特のものがあるように思われた。
人は同じ価値観や行動様式を共有する仲間とだけで生きている時、それらを特に意識することはない。異なる価値観や行動様式に触れてはじめて、それが自分たちに特有なものだと気づく。
僕は普段はSMとは無縁の生活をノーマルな空間で暮らしており、頭の中の妄想はともかくとして、実際の会話においてSMや春川ナミオという文字は登場してこなかった。
今年になってから、DVD製作を通じて知り合った人々と「濃い」会話をすることはあったが、それは "homer" という仮想人格が話している内容で、実際の自分とは違うのだと思っていた。いや、無意識に本質的な自分と理解しても、頑なに別の人格だと「思い込んでいた」ように思う。
ところが原画展開催の準備に向けて、現地の関係者と密接なコミュケーションをとるうちに、SMという価値観を共有する空間にとけ込み、普段はノーマルを装う自分と、条件つきでアブノーマルな面を認める自分とが混沌としながら一体化していったように感じた。
春川ナミオの絵を集めて展示する。ネットの世界ではなく、現実の空間でこのようなコトをする人は特殊である。そう思っていたはずの僕はいつのまにか、特別なことをしているという自覚がなくなっていた。
ピカソやゴッホのような誰もが認める芸術家の展覧会を企画することだって特殊なことであろう。
しかしそれは、誰にでも出来ることではないという意味で特別なのであって、それほど特殊なことではない。
春川ナミオの描く世界が特殊であるならば、ピカソやゴッホだって特殊と言えなくはないか。
ミレーの有名な言葉に「描き方の手法や技術に貴賎があるのであって、絵の主題に貴賎はない」というのがある。

ミレーの傑作「晩鐘」 当時農民の暮らしぶりをリアルに描くことがタブー視されていた時代に、「種をまく人」や「落ち穂拾い」を描いた画家の台詞として心にしみる。
春川ナミオの絵を美術的に見ることへ疑問を抱く人々もいるだろう。むしろイヤラシいポルノグラフィーという見かたが妥当なのかもしれないが、そういう価値観だけが全てではないし、正しいとも思えない。
異なる価値観と出会った時にそれを認めるのか排除するのか。
それは個人的な判断であり、いいかわるいかという問題ではない。芸術作品が持つ重要な「異化効果」を、春川作品は放出している。春川作品が美術作品かどうかという議論の前に、この絵を観賞して何を感じるのかを真剣に考えてみてほしい。
【関連エントリー】
■ 春川ナミオの芸術 ■ ブルーノ・シュルツ ■ 試験に出る春川ナミオ■ 本当はツライ顔面騎乗
- 関連記事
-