
僕は鞭が嫌いです、が・・・ 好きです。
いえ、その~、つまり鞭で打たれるのはあまり好まないのですが、
鞭という存在そのものには、不思議と魅せられる。
そして、鞭を持つ女性の美しさを前にすると、なぜかその鞭で打たれたくなってしまう。

だけど、鞭の痛みにはやはり耐えられなくて、すぐにお許しを乞うてしまうのですが、また打たれてみたいと願わずにはいられない矛盾。
こういう感覚は、普通のマゾヒズム(?)とはまた違うのかもしれません。
おそらく鞭フェチM男さんのような正統的な鞭フェチ感覚とは別種でしょう。

ただ、人類は太古の昔から、鞭への愛慕があったような気もするのです。
ヨーロッパで最も古い歴史書を書き、「歴史の父」と呼ばれる
ヘロドトス が、古代オリエント世界では、女神を讃えるため祭りの時に鞭打ちが行われていたと書いています。
また古代エジプトでは、自発的に自らの身体を鞭打つ慣習があったとも報告されている。
キリスト教のある宗派でも、己が犯した罪を浄めるために崇拝する神の前で自らを鞭打つという行為は神聖な儀式としてみなされているそうです。
しかし、ローマにおいても、あるいはギリシャでも、古代社会での鞭打ちというのは主に奴隷に対して行われていました。
労働力としての奴隷は、家畜同様の扱いを受け、支配者に奉仕する。

その奉仕内容には「性的」なものも含まれていました。
支配者が満足を得られなかったり、奴隷が抵抗した場合は処罰されることになり、その手段の一つが鞭打ちであったのです。
このように鞭打ちの文化の起源は古く、性行為との結びつきも当初からあったわけです。
中世になると、鞭打ちは魔女狩りや異端審問といった宗教的な儀式に利用され、権力者にとってはさらに正統な行為として位置づけられます。
しかし庶民にとっては、拷問や刑罰の道具というネガティヴな陰影により忌まわしいイメージも定着した。
その一方でどういうわけだか魅惑される、奇妙な美意識もついてまわっていたような気がします。
かつてエジプト人が贖罪のために自ら鞭打ったように、太古の記憶が鞭打ちにポジティヴな意味を残していた。
屈折した価値観の交わる得体の知れないカオスが、鞭打ちという行為には渦巻いている。
そのように考えるなら、鞭には肉体的にも精神的にも癒しを与えてくれる価値が見いだせるようにも思います。
鞭が西洋社会で歴史的に生活必需品であったにも関わらず、絵画作品にはあまり登場しません。
歴史画や宗教画でたまに見かけますが、大きなモチーフにはなり得なかった。

ウィリアム・ブーグロー/キリストの苔打ち (1880) 女性の美しさが、裸体や衣装ではなく、鞭というアイテムで強化されることに過去の芸術家が気づいていなかったはずはない。
仮に描かれていたとしても世に出回ることがなかったのか、政治や宗教的な理由などから、画家が自分の美意識を自由に表現できなかった時代性もあったでしょう。

花や果物といった静物画の小道具にも選ばれないからといって芸術のモチーフになり得ないということはないと思います。

ルノワール「鞭を持つ子供」(エルミタージュ美術館)
今は乗馬以外でも、純粋なスポーツとしての鞭打ちが流行っており、以前見られた鞭に対する嫌悪感は軽減されたかに思えます。
もちろんそれは打ち方のスキルを競うもので、人を打つことではない。

本来は家畜や人間(奴隷)を打つことが目的にされていたことを棚上げにし、趣味として見つめられる鞭には、どこか白々しさが感じられる。
現代における鞭の意味あるいは価値には、人間を鞭打つ(あるいは打たれる)という禁断の経験を通して、文明社会における新しいタブーとしての忌避性があるからこそ、神秘的な魅惑に満ちている気がします。

OWK News Magazine vol.7より【関連エントリー】
■ 鞭で打たれる時■ 鞭で打たれたい■ 鞭で打たれてみる
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