高校生の頃に読んだ
小林秀雄 の「近代絵画」に「近ごろの絵は解らない」とその冒頭で書かれていた。
僕には小林秀雄の文章ほうがよくわからなかったのだけれども...
美術の世界では、それまでの常識を覆す発想やテクニックが時代に理解されず、後になってから評価されるということがしばしばおこる。

「オランピア」(1863年 オルセー美術館)
西洋近代絵画の巨匠 エドゥアール・マネが、それまで描かれることのなかった娼婦をモデルに描いた作品をサロンに出品した時、世間から袋だたきにあったことはよく知られている。
絵は、言葉ではなく、イメージで、なんらかのメッセージを伝える芸術だ。
非言語的な表現によって、本来的には目に見えない思想や感情を、ビジュアルに伝達する。
大学などで美術史を勉強したことのある人は、
図像解釈学(イコノロジー)というのをご存知かもしれないが、そんな難しいことを知らなくても、絵のイメージから受け取るメッセージは人それぞれの自由だ。
わからなくたって平気だし、解釈なんか、みんなちがって、みんないい。
違ってかまわないのだけれども、画家が伝えたかった意味を知ること、あるいは想像するのは、絵画鑑賞の楽しみの一つだと思う。
マネは「娼婦をモデルにして何が悪い?」という開き直りを、言葉ではなく絵で言った。
本来はこのように描かれるべき常識をあえてぶちやぶった

ティツィアーノ作「ウルビーノのヴィーナス」ウフイッツイ美術館(1538年頃) 革新的な芸術家の思想やエネルギーは、最初は理解されないか、嫌悪の対象になったりもする。
しかしそれが旧来の価値観や因習的偏見を打破する原動力ともなり、時代を変革していく。
マネも
春川ナミオ も、テーマや手法が異なるだけで、自分が表現したいことを忠実に描いてきたという意味において、同じレベルの芸術家だと言える。

評価されにくい、または時代や社会に受け入れられなかった点でも共通している。
だからといって、マネと春川ナミオが同等に評価されるべきと言っているのではない。
春川ナミオは、マネよりも偉大なのである。 理解する人がいようがいまいが、関係ない。
これが芸術作品の真価であり、醍醐味なのだと思う。

草上の昼食(オルセー美術館) マネはあまりにもあけすけに本音をぶっちゃけて物議を醸したわけだが、近代以前の画家たちだって本当は似たようなことを考えていたに違いないのである。権威にたてつく勇気が足りなかっただけであろう。
この当時の絶対的な権威といえばキリスト教的な価値観であった。
絵画の歴史はある意味で宗教的な制約の中における「のぞき見」の歴史でもある。
ヌードから戦場の残酷シーンまで、一般の人々が日常生活では見ることの出来ない画像を提供するのが画家の仕事だった。
身も蓋もない言い方をするなら、貴族階級の「オナネタ」的な役割も絵画作品は担っていた。

西洋絵画の主要なモチーフとなっていたのは「聖書」。
ありとあらゆる淫らな逸話や残虐なシーンが凝縮された、今でいうエログロ・コンテンツの宝庫でもあった。
「ユディトとホロフェルネス」(1613年 アルテミジア・ジェンティレスキ カポディモンテ美術館)

カラヴァッジョ「ホロフェルネスの首を切るユディト」(1620年頃 ウフィツィ美術館)

同じ題材を描いた作品でカラヴァッジョは
「どうせ殺されるなら美少女のほうがいい」 と思ったに違いない...
それまでの常識では聖書や神話の場面という口実でのみ美女の裸や淫らな情景を描くことが許されていた。
マネはそのお約束を破り、現実社会に生きる娼婦の姿をリアルに描いたのである。
権威への重大な反逆であり、タブーへの挑戦であった。
現実と遠くかけ離れた古代や神話世界のエロスでなく、身近で生々しいエロの衝撃的なデビュー。
まだ写真もなかったこの時代の画家たちは、教会や貴族など上流階級の人々だけではなく、一般大衆の卑猥な期待にも応える新しい作品世界を創りだそうとしていたのではないだろうか。
サンドロ・ボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」

「人はマゾに生まれない」(2008年4月9日付エントリー)【美術関連エントリー】
■ ブルーノ・シュルツ 知られざる「近代マゾ絵画」の巨匠
■ ティツィアーノ マゾッホも敬愛した「鏡に向かえるヴィーナス」
■ シュルレアリスム展 マゾヒズムとはシュールな世界である
■ 平安時代の足フェチ
■ 三島由紀夫の愛した美術
■ レンピッカ展
■ 怖い絵
■ サージェント「マダムX」
■ 女王様の肖像 英国のsardaxが描く現代ミストレスの肖像画

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何を言おうとしているのかよく分からない事が多かったです。