
ごく普通のブログ(非アダルト系)で、ノーマルな人が「毛皮を着たヴィーナス」の感想文をエントリーしたら、
運営事務局に削除 されたそうな。
いったいどういう内容だったのかを筆者に問い合わせてみたところ(大晦日の夜だった)すぐに返事がきた。
こちらはいつ削除されてもおかしくないアダルトブログを開き直って書いている身だし、相手から返事がもらえるとはあまり期待してなかったので、誠意ある返信に驚いた。
内容は「マゾヒストの心の構造を知りたくて、マゾッホの作品を読んでみた」という良識的なもので、別にキワドい表現はなく、冷静で誠実な文章なのだ。
過激な何かを想定していたわけでもないけれど、ある意味で普通すぎて拍子抜けしてしまった。
しかし、西欧と日本の文化や歴史の比較をしながら、一般の文学としても、マゾヒズムのドラマとしても、その普遍性においてはマゾッホよりも谷崎の
「痴人の愛」のほうを高く評価するなど、かなり踏み込んだ考察は見事だった。
「毛皮を着たヴィーナス」の書評としては、沼正三にMと太鼓判をおされた
松岡正剛の千夜千冊が面白いのだが、僕はこれを思い出した。
削除された理由が全くわからない。きわめてまともな文芸批評なのに。
アブノーマル性癖のない、一般の読者にぜひ読んで欲しい文章だった。
こういう記事が規制されるのには、何か邪悪な意図を感じるのは僕だけだろうか...
無料で好きなことを書けるブログ。
しかしその発表の場は恣意的な運営会社が提供するものだ。
確かにブログ開設の前、どこかの段階であのあほらしい「利用規約」をクリック(同意)しているのだから、文句を言えた筋合いではないとはいえ、まったくナンセンスなことだと思う。
誹謗中傷や個人情報開示など、監視や規制の必要性はあるにせよ、読書感想文程度の内容に目くじらたてるというのはどうなのだろう。
件のブログを運営しているのはアダルト系、特にSM系については異常なほど不寛容な会社として一部で有名なので、さもありなんとは思ったのだが...
そういう意味では、FC2ブログは凄いと思う。
「寛容」というレベルを通りこして「もうどうでもいい」とさえ思っているんじゃなかろうか?
無駄な規制や愚かな検閲ではなく、聡明な無頓着にこそ健全な価値を見出せると思う。
「マゾヒストの心の構造」については僕も強い関心があるわけだが、そもそも人の心の構造ほど難しいものはない。
該当記事を削除した事務局の人間の心にも、歪んだ何かがあったのだろう。
児童ポルノなど本来やるべき規制をほったらかしにして、意味不明なことをする。
もっとも、本当に一番わからないのは自分の心だ。
他人の心はそれに比べると客観的には見れる。
巷に氾濫するブログには、子育てや仕事、写真や俳句など、ごく日常的な個人活動における心の動きが細かく記録されている。
その人だけが感動できる、多くの人にとってはどうでもいいこと(例えばペットの仕草とか)
その人だけが昂奮できる、普通の人にとっては不可解なこと(例えば「土下座」とか)
他人にとってはたわいもない身近な出来事の中に、ある人にとっては宝石のように輝く何かが隠れされている。
どんなに優れた恋愛小説をいくら読んだところで、なぜ特定の誰かだけを好きになれるのかなんて、わからない。
しかし、無名で健全なブログや、アダルト系不健全日記の中には「なるほど」と思わせる表記がある。
「君」という特定の誰かへのメッセージが、無関係な万人の心にも伝わり、邂逅する。
偉大な文学やメジャーな出版物にはないヒントが、一見退屈に見える平凡なブログにはある。
個人レベルのミニマムな情報発信と無頓着な表現の中から、意図せずに得られる不思議な感動。
そこに心の構造が解明される可能性もあるのではないだろうか。
【それなりに関連ありそうな?エントリー】
■ サド裁判■ 早稲田大学SM文学研究会■ 毛皮を着たヴィーナス■ 不快の定義
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