
古典的なFemdomアーティストとして知られる
Montorgueil が描くマゾヒストには、羞恥心があまり感じられない。
ほぼ同時代の画家
ブルーノ・シュルツによって描かれる哀れさや弱々しさはなく、腹をくくって己の被虐感を冷静に見つめているような潔さが見られます。
ヨーロッパのエロティック・アートで男性器の描写は特に珍しいことではありませんでした。
しかし、射精の瞬間をこれほどビジュアルに表現しているものは珍しく、膨大な作品数の中でもこれは際立っています。
いくら検閲のリスクが少ないブラック・マーケット的な流通の時代背景を考慮しても、かなり大胆な試みだったのではないでしょうか。

現在入手可能な出版物では規制が入っているようです。
芸術的な美的感覚から言っても、こういう図柄というのはそれほどリアルに見たいとは思えないモチーフです。
オナクラなどなかった時代、女主人の脚で挟まれたペニスで射精することの恥ずかしさたるや想像を絶するものがあります。
しかしこの絵の主人公は、なんともあっけらかんと逝っている。
これが当時の思想や感性の文化を反映した結果だとするならば、現代に生きる我々M男は圧倒され、戦慄さえおぼえるのです。

最近は男性器も射精の瞬間も安易に描かれ過ぎているようで、いささか食傷気味です。
コンピュータ・グラフィクスによるリアルな精液や射精の描写が可能となり、CGならではの独特の「不自然さ」の中に、現代においては失われつつある羞恥の姿がより鮮明に浮かびあがっているように見えるのが皮肉です。

二次元イラストのようにM男のアヘ顔をセットにされてしまっては逆に興ざめしてしまう... M性感やSMクラブでも、いわゆる足(脚)コキは定番のプレイとなっているようですが(僕は経験ありません)なんだか女王様を自慰の道具に貶めているような罪悪感をおぼえます。
もちろんマゾヒストの脳内では、理想の女王様は常に自分のファンタジーを構成する部品となり、いわば女性をモノ化するという大罪を犯しているわけで、女性崇拝願望を抱く純粋なマゾヒズムゆえに感じるタブー性がさらなる昂ぶりを呼び起こす。
おそらく Montorgueil 自身もそれぐらいのことはわかっていたはず。
だからこそ負い目を感じながら、毅然として恥ずかしい行為を命令する貴婦人を描き、それをクールに実行するマゾヒストの描写に傾倒していたのではないかと思えるのです。
なんの恍惚の表情も浮かべず儀式的逝く姿には、力強いマゾヒズムが表現されており、男尊女卑の社会に生きる一人前の男としては最低の、それでいてマゾヒストにとっては真に感動的な一瞬が捉えられているのです。

鏡がなければ、こういうことやってみてもいいかも鴨川...
Femdom Artの古典の世界では、射精の描写は意外と少ない....

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射精の快感は、書くまでも無い。
どうも、人間は排泄を快感と感じる様に思えてなりません。
じゃあ、人の排泄を見るのはどうだろうか?
どう考えても、同性のこれらを観察したいとは、思わない。
けれど、異性は違う。M男でなくても、覗き願望が有るのは周知だし、
M男によっては、聖水、黄金を求める人も多い。
昔、あるミストレスに「今日はお前の射精が見たい」と、言われた事があります。
もしかしたら、ミストレスでも、異性の排泄行為には(M男であっても)、興味があるのかもしれません。
単純に手コキしてもらいたいとは、思わないけれど、牛プレイ(イイ言葉ですね)には、
興味津々で、妄想の種になっています。
家畜厩舎に繋がれて、搾乳ならぬ搾精される。
牛プレイしたいなー
<( _ _ )> 失礼いたしました。