
縄師の
我流縛 によれば、SMとは「セクシャル・マゾヒズム」の略で、
「SMプレイにサディズムは存在しない」のだという。
これは僕も昔から思っていたことで、どちらかといえばS側(サディズム寄り)とも言える縄師の立場からこのような発言がされるとはちょっと意外でありました。
彼が言ってるのは、女性を縛って責めるような、いわゆる伝統的で典型的なSMプレイにおいてでさえ、そこには性的マゾヒズムよる共同幻想が責め側(S側)にもなければならないということです。
内面に性的マゾヒズムのない画一的なサディズムによって行われるSMは暴力であり、「SMプレイ」と混同することに警鐘を鳴らしている。
おそらく一般的には(マニアックにも)SMとは「サディズム&マゾヒズム」と解釈されていて、精神医学用語として間違いではなく、形而上学的にSとMは共存関係にある。
しかしながらプレイ、つまり「ごっこ」として行われる現代のSMプレイにおいて真のサディズムは存在しないし、あってはならない。
彼に言わせると、サディズムには暴力を正当化する心理があり、健全なものとは言えない。
だからといって、マゾヒズムがサディズムと比較して健全であるかどうかはともかく、
現場でイニシャティブを握るサディズム側に、より確かな健全性が求められるのは当然です。
よくカリスマ的な緊縛師やS男性が「SM(あるいはサディズム)とは究極の愛情表現である」などと宣いますが、はたして本当にそうなのか。
もしかすると異常者とまでは言わないにしろ、誤解や無知からくる加害者側の暴力的行為の言い訳にすぎない可能性だってあるかもしれません。
当然ながらこれは、女性がS側となる Femdom 的なSMプレイにも同じことが言えます。
責められるM男は、自己のマゾヒズムとは別に女王様のことを愛している。
そのこと自体が幻想なのかもしれないが、逆に女王様のほうにはM男への愛もないのに
「責めている私の行為には愛があるんだワ...^^)」などと勘違いされては困るのです。
プロ・アマ問わず良心的なSM愛好者の間でも、「愛情表現」という切り札は使用されてきた。
痛くても、汚くても、本当にイヤでも、そこに愛があればなんでも正当化されてしまいがちなSMの世界。
そういう微妙なグレーゾーンを排除し、現代のSMを健全化しなければならないと我流縛は主張する。
SMの健全化について 我流縛のブログ「紅縄庵 思索之間」より 僕の数少ない個人的な経験から言っても、人柄が優しくてひょっとするとM女かもしれないと思われるような女王様にこの点を誤解されてるようなケースがかつてありました。
しかしそれで僕が不愉快な思いをしたかというとこれまた微妙で、この問題は本当に奥が深く、難しい。
「両者合意の上」とはいっても、いったいどこまでが「合意」なのか。
合意していない境を越えてしまった時点でそこから突然「暴力」と言えるのだろうか?
正直なところよくわからないのですが、かろうじて僕が思うのは、
SMプレイは「SとMのプレイ」ではなく、
「マゾヒズムの遊戯」であり、
「SとM」というよりも、「そこにいる両者」のコラボレーションなのではということです。
そして確かに、サディズムとは無縁なのでしょう。

女王様やS女性がM男を嫐って楽しまれるにしても、そこにはいわゆる暴力的なサディズムはありえない。
これは要するに我流縛の言うところの「セクシャル&マゾヒズム」プレイと同じだと思います。
たとえ合意の上であっても、暴力との境界境が曖昧だったり、犯罪スレスレの行為は避けるべきで、良識ある大人のたしなみは必要です。
そのためには健全なるマゾヒズムの理解が不可欠なのです。
僕らマゾヒストの性癖は、本当は健全と呼べるようなものではありません。
だけど、自分が自分らしくあるためには必要な「不健全さ」なのです。
時には健全さを保つために、思いっきりヘンタイであることを潔く認めなければならない。
不健全な変態が「変質者」であり、犯罪者になってしまう。
マゾヒズム自体は犯罪でも変質でもなく、たんなるヘンタイの一種で、罪はないのです。
誰かにいいわるいとか、または悪趣味と言われてしまえばそれまでですけど、ほっといてほしい。
自分は変態(ヘンタイ)であろうとも、心身ともに健康でありたいと願っているのです。

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■ 理想と現実 ■ ノーと言えないマゾ
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